ヘーゼルナッツの水曜日

 オシャレ系ミュージシャンとして16年前に一世を風靡した矢口カンタロウのことを覚えているだろうか。矢口は当時、チョコレートのCMソング『ヤンヤヤンヤ!道玄坂』が大ヒット。中世的なルックスが時代のニーズにマッチして、オシャレ系ポップスのブームを牽引する存在となった。
 矢口は当時、グラビアアイドル、小説家、金融アナリスト、経営者、バドミントン選手、女優、演歌歌手などの有名人女性に18股をかけていたと報道されたほどのプレイボーイで、町行く女性たちが、口々に抱かれたい男に矢口の名前を挙げたものだった。
 しかし、その人気の凋落ぶりは音速だった。1996年と1997年には2年連続で東京ドーム5デイズを満員にしたものの、1998年の全国ツアーの会場は最大キャパが下北沢のCLUB Que。その翌年の1999年は全国ツアーをすることもなく、人々の記憶から忘れ去られていった。
 矢口はその後、吉祥寺の焼き鳥屋でフルタイムのアルバイトをしながら再起の機会をうかがっていた。寝る間を惜しんで曲を作り、『ヤンヤヤンヤ!道玄坂』を超えるヒットを狙ったものの、残酷なことに矢口の才能は枯れ果ててしまっていた。
 2007〜2009年にかけてはミュージシャンをほぼあきらめ、舞台役者、小説家を目指して修行に励んでいたとされている。しかし、これも表立った活動報告はされていないため、志半ばで投げ出したのだろう。
 そこからの消息は不明である。吉祥寺の焼き鳥屋からも籍を抜き、どこでどうやって暮らしているのか誰も知ることはなかった。たまに40代の男女が同世代で集まると、誰かがカラオケで『ヤンヤヤンヤ!道玄坂』を歌い、「懐かしすぎる〜」と合唱が巻き起こる程度だった。
 では矢口はどこへ行ったのか。もうこの世にはいないのではないか。誰もがそう思っていたはずだが、なんと2012年5月、矢口は突如新曲をYoutube上でリリースしたのだ。シングルのタイトルは『ヘーゼルナッツの水曜日』。歌詞は『ヤンヤヤンヤ!道玄坂』と同様に全くの意味不明で、水曜日になると、隣の部屋に住むボーダー姿の少女がヘーゼルナッツを食べたくなってヘーゼルナッツダンスを踊るという空っぽな内容だったが、メロディは矢口節の甘い旋律が全開で、長年のブランクが嘘のような良い出来だった。
 しかし、時代の変化は残酷だった。いくつかの音楽ニュースがこの曲を取り上げ、「あのオシャレ系のプリンスが、十数年ぶりにまさかの新曲をリリース!」と煽ったが、もはや矢口のことを知っている層は新規の音楽を聴くことをやめていた。若者は誰も矢口の名前すら知らず、このニュースはスルーされた。発表から2週間経った今の再生回数はたったの56。かつて東京ドームを満員にした人間の新曲とは思えないほど寂しい数字である。