ヘーゼルナッツの水曜日

 オシャレ系ミュージシャンとして16年前に一世を風靡した矢口カンタロウのことを覚えているだろうか。矢口は当時、チョコレートのCMソング『ヤンヤヤンヤ!道玄坂』が大ヒット。中世的なルックスが時代のニーズにマッチして、オシャレ系ポップスのブームを牽引する存在となった。
 矢口は当時、グラビアアイドル、小説家、金融アナリスト、経営者、バドミントン選手、女優、演歌歌手などの有名人女性に18股をかけていたと報道されたほどのプレイボーイで、町行く女性たちが、口々に抱かれたい男に矢口の名前を挙げたものだった。
 しかし、その人気の凋落ぶりは音速だった。1996年と1997年には2年連続で東京ドーム5デイズを満員にしたものの、1998年の全国ツアーの会場は最大キャパが下北沢のCLUB Que。その翌年の1999年は全国ツアーをすることもなく、人々の記憶から忘れ去られていった。
 矢口はその後、吉祥寺の焼き鳥屋でフルタイムのアルバイトをしながら再起の機会をうかがっていた。寝る間を惜しんで曲を作り、『ヤンヤヤンヤ!道玄坂』を超えるヒットを狙ったものの、残酷なことに矢口の才能は枯れ果ててしまっていた。
 2007〜2009年にかけてはミュージシャンをほぼあきらめ、舞台役者、小説家を目指して修行に励んでいたとされている。しかし、これも表立った活動報告はされていないため、志半ばで投げ出したのだろう。
 そこからの消息は不明である。吉祥寺の焼き鳥屋からも籍を抜き、どこでどうやって暮らしているのか誰も知ることはなかった。たまに40代の男女が同世代で集まると、誰かがカラオケで『ヤンヤヤンヤ!道玄坂』を歌い、「懐かしすぎる〜」と合唱が巻き起こる程度だった。
 では矢口はどこへ行ったのか。もうこの世にはいないのではないか。誰もがそう思っていたはずだが、なんと2012年5月、矢口は突如新曲をYoutube上でリリースしたのだ。シングルのタイトルは『ヘーゼルナッツの水曜日』。歌詞は『ヤンヤヤンヤ!道玄坂』と同様に全くの意味不明で、水曜日になると、隣の部屋に住むボーダー姿の少女がヘーゼルナッツを食べたくなってヘーゼルナッツダンスを踊るという空っぽな内容だったが、メロディは矢口節の甘い旋律が全開で、長年のブランクが嘘のような良い出来だった。
 しかし、時代の変化は残酷だった。いくつかの音楽ニュースがこの曲を取り上げ、「あのオシャレ系のプリンスが、十数年ぶりにまさかの新曲をリリース!」と煽ったが、もはや矢口のことを知っている層は新規の音楽を聴くことをやめていた。若者は誰も矢口の名前すら知らず、このニュースはスルーされた。発表から2週間経った今の再生回数はたったの56。かつて東京ドームを満員にした人間の新曲とは思えないほど寂しい数字である。

ゴールデンウィークはバッタと

 うちのクラスには究極のひねくれ者がいる。名前は進藤和樹。進藤の何が変わってるかって、普段は全く学校に来ないくせに、祝祭日は学校に登校するのだ。
 進藤が不登校になった原因はよくわからない。コミュニケーション能力もあるし、友達も多いし、何よりも人から嫌われるような性格ではない。育った家庭環境も至って普通だし、担任の巻田先生も、進藤をどう扱っていいかわからないようだった。
 僕らはまだ義務教育の中学生だから、進藤が退学になるようなことはない。進藤はテストの成績もいいし、普段の平日に学校に来ない以外は、何の問題もない生徒なのだ。
 他の生徒たちは、進藤がなぜ学校に来ないのか知ろうとするのをあきらめかけていた。しかし僕は違った。何が何でも進藤から、その理由を聞かないと中学を卒業することができない。
 僕は何度か、日曜日に学校に行って進藤に会い、その理由を聞こうとした。しかし、朝から一緒にいて、ちょうど盛り上がったくらいに夕方になってしまい2人とも家に帰ることになる。また翌週の日曜日に会ったとしても、もう一度ゼロから盛り上がり直さなくてはならないのだった。そこで僕は、勝負はゴールデンウィークじゃないかと思っていた。ゴールデンウィークだったら何日も連続で一緒に遊ぶことができるし、進藤が僕に対してもっと心を開いてくれるかもしれない。僕は親や友達からの遊びの誘いを全て断って、ゴールデンウィークに賭けた。
 ゴールデンウィーク前半はあっというまに終わった。そして後半がやってきた。3、4、5日と過ぎていき、焦り始めた最終日の6日。ついに進藤がなぜ学校に来ないかを話してくれた。
「あのさ。なんで俺が普段学校に来ないか、聞きたいんだろ?」
「う、うん」
「バッタだよ」
「バッタ?」
 僕は予想もしない答えに戸惑った。進藤が説明するところによると、ここの学校の校庭にはバッタがたくさんいる。しかし、普段は生徒数が多いから、バッタは怖がって出てこない。休日だったら生徒の数も少ないから、進藤はゆっくりバッタと遊ぶことができるというのだ。
 確かに今こうして教室の窓際で、外を見ながら話しているが、進藤の視線は校庭の隅っこの草むらしか見ていない。進藤が自分で言うところによると、親の特訓で鍛えていたから視力がすさまじく良いため、こうして教室からの距離があっても、バッタたちが喜んで跳ね回っているのが見えるのだという。
 道理で、進藤は全くこっちと目を合わせずに、窓の外ばかり見ているわけだ。僕はすっきりしたが、進藤がなぜそこまでバッタに惹かれるのかを質問せずにはいられなかった。
「でも、なんでバッタなんだい?」
「跳ねずにはいられない本能かな」
「跳ねずにはいられない、本能?」
「そう。本能だ。僕ら人間は皆、跳ねようとする本能を失ってしまい、ひとところに留まって小さくまとまろうとする傾向があるだろ。僕は小学校5年生の頃にそれに気づき、人生に絶望しかけた。そんな人ばかりの世界を生きる気になれなかったんだよ。でもね、ある日学校の帰り道で見たバッタが一生懸命跳ねようとしているのを見てハッとしたんだ。僕もバッタのように生きるんだと。それ以来、僕は人に興味が全くなくなり、バッタのことしか考えられなくなった。朝起きると庭に出てバッタを見続け、1日は終わる。校庭には、家の庭よりもたくさんバッタがいるから、みんなが学校に来ない日は思う存分見に行くんだ」
「でもさ、そのまま一生生きていくわけにはいかないだろ」
「それはわかってる。ただ、今はバッタを見ている時期だと思うんだ。この時期がいつまで続くかわからない。きっと僕がまだ臆病なんだろうな。いつか僕もバッタのように、跳ねられると思う日が来たら、もう少し外の世界に飛び出すことができるかもしれない。ただ、今はこういう時期なんだ」
 僕は進藤の言っていることの1割くらいしか理解できなかったが、バッタを見ていると気持ちがスカッとするというのはなんとなくわかる気がする。そのまま僕と進藤は3時間ほどバッタを眺め続けた。僕は視力がいいほうではないが、草むらの中でバッタがピョンピョン跳ねているような雰囲気はなんとなくわかった。
 家に帰り、父親からゴールデンウィークは何をしてたんだと聞かれると、「友達がずっとバッタを見ていることがわかった」と言った。父親はわかってるんだか、わかっていないんだかわからないような表情を浮かべて瓶ビールの栓を開けた。

いま、会えるビンドル(=貧乏ゆすりアイドル)

 魚ドル、歴ドルオタドルなど、アイドルの多様化と叫ばれて久しいこの時代に、新たなるNEWフェイスが出てきて話題を呼んでいる。彼女の名前は、柳瀬ゆれ子。アイドルとしてのデビューは2008年で、当時は全く無名のグラビアアイドルだった。イメージDVDを3本リリースし、シングルCDを1枚リリースしただけで、ゆれ子はあまりの人気のなさに引退しようと考えていた。しかしそんな彼女にある日、その後の人生を変えるような転機が訪れる。
 ゆれ子は自分のすべてを賭けて臨んだ3枚目のDVD『フレッシュホルマリン』が全く売れず、イライラのピークに達していた。そんな中、あるケーブルテレビで視聴率0.01%にも満たないバラエティ番組のアシスタントとして呼ばれ、「こんな仕事、私はしたくないのに…」と不満が爆発しているときに、その事件は起こる。ゆれ子はゲストの大学教授が気持ちよく喋っている最中、カメラに写らない場所で座っていたのだが、あまりに苛立ちを抑えることができなくなり、激しく貧乏ゆすりをしてしまったのだ。
 ゆれ子はもともと小さい頃から貧乏ゆすりの癖がやめられず、母親からは「女の子なのに、みっともない!」と言われてひっぱたかれてきた。しかし、その肉体になじんだ快感は、ゆれ子にとって途方もなく心地いいものだった。ただ、授業中や面接などの時にやると嫌われるのはわかっていたから必死に我慢し、授業が終わるとトイレの中で存分に貧乏ゆすりを楽しんだ。男からも嫌われるのがわかっていたから、デートのときに家の前でバイバイすると、ダッシュで家の中に駆け込み、玄関先で我慢していた貧乏ゆすりをやりまくった。アイドルとしてデビューしてからもその習慣は守り続けた。人前で貧乏ゆすりはしない。やれば必ず嫌われてしまうからだ。
 しかし、ゆれ子はこの時、あまりに今まで抱えていた悶々とした思い溜め込みすぎていたため、自分が貧乏ゆすりをしていることにも気づかなかった。もしかしたら、もう心のどこかで引退を決めていたから気持ちが緩んでいたというのもあるかもしれない。とにかく、この時のゆれ子は正気ではなく、嬉々とした顔で貧乏ゆすりをしまくり、その口からはヨダレがダラダラと垂れていた。
 スタジオはその頃、大騒ぎだった。ゆれ子が本気で貧乏ゆすりをすると、半径15mにある建物は地震のように揺れだす。照明やセットがガタガタと揺れだし、アナウンサーは「地震のようです。机の下に隠れてください。もう一度、繰り返します。机の下に…」と連呼した。しかし、5分経っても10分経っても揺れは止まらず、地震にしては長すぎるのではないかという空気がスタジオに漂い始めた。そしてディレクターがYahoo!の地震情報をチェックしてみたところ、そのような地震の情報はアップされていなかった。そして15分、20分…と揺れが続いたとき、カメラマンがその揺れの原因に気付き、ゆれ子にカメラを向けた。ゆれ子はカメラを向けられていることにも気づかず、トランス状態で貧乏ゆすりをしまくり、その模様は約1分間放送されることになった。マネージャーが慌ててゆれ子の元に走っていき、往復ビンタをしたことでゆれ子は正気に返り、この騒動は終わりを告げた。マネージャーはゆれ子にクビを宣告し、事実上彼女は無職となった…はずだった。
 なんとこの映像をYoutubeにアップした者がおり、この動画は2000万回も再生されることになる。やがて柳瀬ゆれ子の名前を知らない者はいなくなり、某大手芸能事務所がゆれ子が現在無所属だと聞くとすぐにスカウト。「いま、会えるビンドル(=貧乏ゆすりアイドル)」として売り出したのだ。
 ビンドルとなったゆれ子の快進撃はすさまじいものだった。かくし芸大会や、コント番組、ドラマや映画など、あらゆるメディアにおいて飛び道具としてゆれ子の貧乏ゆすりは使われまくった。やがて、科学番組の中でも、「柳瀬ゆれ子の貧乏ゆすりはなぜここまで揺れるのか?」という特集も組まれた。ゆれ子は小さい頃から一度も大きな病気をしたことがなく、「貧乏ゆすりは健康の秘訣」という説の信憑性を高めた。
 ゆれ子は『貧乏ゆすりだよ人生は』『ビンビンビンのビビビンビン♪』『ロックン貧乏ゆすり』『行くぜっ! 貧乏ゆすり少女』などのシングルをリリースし、どれもヒットを記録。ゆれ子はもともとトークがうまかったこともあり、貧乏ゆすりだけの一発屋に終わることもなく、多くのバラエティ番組のレギュラーを獲得した。
 今では、ゆれ子の母親は手の平を返し、『ビンドルを育てた自由な子育て法』などの書籍を書き、自分はゆれ子の貧乏ゆすりを矯正したことはないなどとうそぶいているが、ゆれ子はそんなことはもう気にしない。何よりも、自分が一番好きなことが仕事になったことが嬉しくて仕方ないのだ。ゆれ子は今、激忙なスケジュールの合間をぬって全国を回り、貧乏ゆすりの重要性を説く講演会を開いている。海外からの注目度も高まっているため、ゆれ子の貧乏ゆすりが世界を席巻する日も近いだろう。
 ゆれ子はいつも著書や講演の中で言っている。「人には必ずひとつ、夢中になれる何かがあるはずです。それを伸ばせば必ず道は開けてくる」と。アイドルやタレントに限らず、今の状態で行き詰って悩んでいる人たちは、もう一度自分に何ができるか、何が好きなのかを問いかけ、周囲の意見やプレッシャーに押しつぶされることなく、その道をひたすら究めていってほしい。

恋愛けちょんけちょん隊(RKT)

 関東近郊を訪れたことがある人なら、必ず目にしたことがあるだろう。「け」と一文字だけ書かれた帽子をかぶった奇妙な集団を。彼らの名前は「恋愛けちょんけちょん隊(RKT)」。文字通り、恋愛をけちょんけちょんにこき下ろすことを生き甲斐にしている集団だ。
 彼らがどのようなトラウマを経て、RKTに入ることになったのかは、それぞれにそれぞれの理由があるからに違いないが、とにかく彼らの恋愛に対するネガティブな感情は異常だ。ただ、そのような彼らのことを異常というのは、あくまで恋愛においていい思いをしてきたリア充な人々からの感想であり、彼らの本当の気持ちを理解するには、彼らと同じような辛い経験を経てみないとわからないだろう。
 RKTが発足したのは、自然発生的なものだったと言われている。誰が指揮をとるわけでもなく、恋愛のことをけちょんけちょんにこき下ろす人たちが急増し、同じような考えを持つ者同士、チーム名でも決めましょうということからRKTが作られたのだ。最初は、200〜300人程度で、主に渋谷・原宿界隈で活動するだけだったこの集団も、あまりに人数が増えすぎたため、今では関東地方に700万人ほど生息すると言われている。まだ関東以外の地方では、そこまでの盛り上がりは見せていないが、あと1年もすれば、その勢いは日本全土を覆いつくのではないかという説が専門家の間では濃厚だ。
 RKT発足当時は、カップルがたまにRKTのメンバーに街中で遭遇しても、「あら、恋愛けちょんけちょん隊だわ。いやーね」と軽く避ける程度に過ぎなかったが、今ではどこを歩いてもRKTの姿を見かけ、彼らにけちょんけちょんにこき下ろされたときに反論でもしようものなら、すぐに他のRKTが援軍を引き連れてきてしまい収拾がつかなくなるので、カップルたちはひたすら肩身の狭い思いをしている。仮にRKTからの怒りを買い、道端でけちょんけちょんにこき下ろされたとしても、「すみませんでした」とひたすら謝りながら、彼らの叫びを聞いているケースが多い。
 海外メディアはあまりのスピードで勃興し続けるRKTを危惧して、「RKTが日本の恋愛を滅ぼす」という記事を出すなどして牽制しているが、全く影響はない。今では政治家や官僚、芸能人や企業経営者の中にも、隠れRKTがいるため、RKTを弾圧しようという動きは一切起こっていないのだ。
 どうしてこうなってしまったのか。恋愛とは人々の心を豊かにし、人々の人生を幸せにするものではなかったのだろうか。果たして、昔のように恋愛がけちょんけちょんにこき下ろされないような時代はやってくるのだろうか。確実に言えるのは、今こそもう一度、人類が恋愛というものに向き合い直さなくてはいけない時期なのだろう。

イイジママサコのニッポン万歳!

 もー、ニッポン! ニッポンどうなっちゃうのさ。我が国を愛することだったら誰にも負けない私、イイジママサコちゃんは今日も元気にヤケ酒してるよ♪ 酒の肴はもちろん、ニッポンの未来を嘆くこと。こんな国で生きていくのはもうごめんさ……なーんて、ネガティブなことも言いたくなっちゃうよ! あ、ごめんと謝ったついでに教えようか。私は実は、自分の家族よりも友達よりも日本を愛してるんだよ。うわーーっ、言っちゃった。恥ずかしいね、これって一種の告白みたいなもんだよね。ニッポンさん、あなたが好きです。みたいな? うわっ、どうしよう。顔が赤くなってきちゃった。照れるね。私がどんなに背伸びしたって、日本と付き合えないことはわかってるんだけどね。
 でもね、こんだけ日本が好きだからこそ、憧れているからこそ、いろいろ言いたくなるわけよ。みんなだって憧れの芸能人が変な方向に行ったり、どうしようもない恋愛に身を溺れさせているのを見ると嘆きたくなるでしょ? あれと同じよ。私はニッポンに恋してるの! それだけ!
 私の日本ストーカーぶりを見せようか。まず玄関に入ると、日の丸の玄関マットに日の丸の靴べら、日の丸のすだれが目に入るよね。トイレのスリッパだって、シャンプーだって、歯ブラシだって、全部日の丸のケースに入れてるよ。寝室に行くと、シーツも布団も日の丸。食卓に行くと、食器や椅子やテーブルも全部日の丸の柄! 私よりニッポンが好きな人、見たことないんだけど、あなたの周りにいるかな? いないよねー。だーよーねーー。
 それでね、私はいつも寝る前に、日本への愛を200回唱えるの。「日本を愛しています、日本を愛しています、日本を愛しています…」ってね。こうすると、日本にまた一歩近づけた気がして、うれしくなるんだなー! 
 日本が私のことを見向きもしていないっていう辛い現実はもちろんわかってる……。でもね、こんなに爆発しそうな恋心を持っている以上、何もせずにじっとしていることなんてできないのだ! んぎゃ! 先月から私はジムに通って、お腹まわりもずいぶん引き締まってきたから、もしかしたら今告白したら振り向いてくれるかも? いやー、想像したら胸がドキドキしてきちゃった。今日はもう寝るね、読んでくれてありがとう。イイジママサコのブログ『ニッポン万歳!』でした!

事務のおばさん

 敏腕マーケティングコンサルタントの勝浦丈太郎が、今年ほどマーケティングというものがいかにあてにならないかを痛感した年はなかった。勝浦は、2012年の日本はトゥーマッチで異質であるものがウケるだろうと予言した。その兆候は確かにあった。“ももクロ”ことももいろクローバーZのような過剰に歌い踊りまくるグループの人気がとどまるところを知らず、日本人の好みは一気に変化したように思われた。もはや、おとなしいアイドルや商品は全て飽きられたのかと思われ、2012年のCM界やドラマ界は過剰な演出のもので溢れ返った。
 そのひとつの例をあげよう。“世界一過剰なドラマ”のキャッチフレーズで華々しくスタートした、『代々木のトラと武蔵境のクマ』だ。このドラマは代々木で発見されたトラが人間を襲い、そのトラを武蔵境に幽閉されていたクマが倒しに行くというものだった。こう書くと単なる動物バトルものに見えるかもしれないが、ここに芸能界の黒い闇問題、低迷する学校教育、家庭崩壊、年金問題、宇宙技術戦争、食糧危機、医師不足問題などの様々な問題が闇鍋のようにぶちこまれ、1回見ただけでは何のドラマだかさっぱりわからないほどの過剰さだった。
 テレビ局側はこのドラマを時代のニーズにマッチするものとして、視聴率35%を予想したが、実際のところは7%と低迷。このドラマを絶対にヒットすると予言していた勝浦丈太郎も、多くの人々からひんしゅくを買う結果となった。
 では、そんな過剰ブームの中でヒットしたものは何だったのか。それは教育テレビでひっそりと放送されていた『事務のおばさん』だ。このドラマの主人公である、46歳の独身女性・山本月子は文具メーカーに事務職として勤務しており、毎日大きな事件のない会社で淡々と仕事をこなす。ただそれだけのドラマだった。このドラマのプロデューサーを務めた川西幸恵は、「ここまでヒットするとは思っていなかった。ただ私がやりたかったのは、日常というものはいかに何も起こらないかということを示したかっただけです」と後に語っているが、本当に何も起こらない。ただ山本が書類にハンコを捺し続ける姿をえんえんと写し続けるだけだ。ただ、それだけに、たまに山本が怒ったときや、喜んだときは、その感情の起伏のインパクトがすごかった。また、山本は同僚たちと飲みに行くこともなく、外で遊ぶ友達が多いわけでもない。ただ、仕事が終わるとまっすぐ帰宅し、スーパーで買ったお惣菜をテレビを観ながら黙々と食べる。そのあたりの静かなリアリティも、これまでのドラマでは全く表現されていなかったものだった。
 『事務のおばさん』は18時半〜19時という、社会人にとっては非常に微妙な時間に放送されていたが、人々はこのドラマを観るためだけに定時で仕事を終わらせ、国民の平均総労働時間が2時間減ったと言われている。残業が多くなってしまったときは、中抜けして家でドラマを観てからもう一度会社に戻るという者もいたほどだ。このドラマは平日は毎日放送されており、なぜかリアルタイムで観たいという意見が多く、余程やむをえない場合を除いて録画する者は少なかった。
 『事務のおばさん』グッズは飛ぶように売れ、無名の大学生シンガー・KONPAが歌う『じむのうた』は50万枚のヒットを記録した。山本月子を演じた春日春江は売れない小劇団の専属女優だったが、『事務のおばさん』のヒット以降は映画やドラマ、CMにと引っ張りだことなった。おもちゃメーカーが作った超合金の事務のおばさん人形も子供たちに売れた。子供たちは人形をカバンに忍ばせ、放課後は砂場で戦わせた。
 ドラマの効果で、事務職への人気が高まったことも報告されている。それまでは地味な印象を持って迎え入れられていた“事務”という響きが急にクールなものとしてとらえられ、従来の事務職にはいなかったタイプの若者たちが殺到。従来の事務職の方々からは、事務職のイメージを好転させたということで、感謝の声も多く聞かれた。
 また、ドラマだけではなく、映画、アニメ、コミック、ライトノベル、カードゲームなどのメディアミックス展開も見せて、どれも大ヒットを記録。まさに日本中が“ジムオバ”ブームに湧いた1年となった。
 ドラマの中でこんなセリフがある。新入社員の若者が山本に向かって、「山本さんは夢とかないんですか? この会社で一生を終えるつもりですか?」と失礼なことを聞く場面があるのだが、それに対して山本は「夢はあるわよ。毎日を一生懸命生きること。それができれは働く場所なんてどこでもいいのよ」と言う。この場面の瞬間視聴率は60%を超え、多くの日本人の心に刻まれるセリフとなった。

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 僕はいつもネタ帳を持ち歩き、仕事中でも、友達と酒を飲んでいる最中でも、思いついたネタがあったらメモをしてきた。その日のブログに書くためだ。「おまえ、またブログのネタかよ」と言われ、「すごいの思いついちゃったんだよ」と答える。そんな会話は何百回としてきた。
 僕は昔から表現欲が強く、人に自作の小説やエッセイを読ませるのが好きだった。好きな女の子ができるとついつい長文の手紙やメールを書いてしまい、相手から返事が返ってこないことが多々あった。
 そんな僕にぴったりのツールが見つかった。それがブログだ。今でこそツイッターなどという便利が出てきたが、このブログを始めた5年前にはそんなものはなく、ブログを書いてネットにアップすることだけが僕の生き甲斐となった。はっきり言ってこの5年間、プライベートで何をしていたかを思い出すことができないほど、特別なことは何もなかった。仕事も以前と変わらず、友人関係も学生時代と変わらず、恋人が出来る気配もない。変わり映えのない、進歩のない5年間。ただ、ブログを更新しさえすれば生きていけたのだ。
 そのまま僕は一生、おじいちゃんになってもブログを更新し続けていけば他に何もいらないと思っていた。あることに気付くまでは。
 僕は恥ずかしいことに、このブログにアクセスカウンターなるものがついているのを知らなかった。今考えると、なんておめでたい奴だろうとあきれるしかないのだが、そもそも僕はコンピュータに疎いのだ。ブログを書いてアップする。その作業だけで、このアナログ人間な僕には精一杯だったのだ。
 僕はいつも、会心の出来のブログを書いたときには、世の中にも同じようなことを考えている人が何万人もいて、彼らが驚き、共感し、絶賛している姿が目に浮かんでいた。コメント欄にコメントが書かれることは一度もなかったが、人はあまりに驚いた記事に対しては沈黙するしかないのだと思っていた。つまり、コメントが1件もないことイコール、何万人が同意していることなのだろうと。
 頭の中の計算では、1日僕のブログに訪問する人の人数は3万人だった。つまり1年で約1000万人。5年で5000万人。このまま続ければ、トータルの訪問者数が1億人になる日も近いのだろうと思っていた。
 物事には知らなくてもいいことがある。いま時間を巻き戻せるならば、あの日の僕に言ってやりたい。あの日の僕は、いろいろと更新するのに手こずり、いつもとは違うボタンをクリックし、妙な管理画面を開いてしまった。そこには「アクセス数」という魅力的な文言がキラキラと僕の目の中に飛び込んできた。
 僕はおそるおそるそのボタンをクリックすることにした。どんな数字が出てくるだろうか。心臓の鼓動が高鳴った。5000万人か? それともやや多く見積もって6000万人かもしれない。いやいや、世の中は自分の思い通りにはいかないものだから、もしかしたら3500万人ということもあるかもしれない。
 すると、パソコンの画面に出てきた数字は、「2305」という数字だった。僕はきっと「万人」を省略して書いているに違いない。つまり2305万人という、自分の予想よりずいぶん少ない数字だったのだと思い込もうとした。しかし、どこをどう見ても、それが「万人」を省略したという証拠を見つけることができなかった。
 僕はいったん画面を閉じ、そして寝た。起きてから改めて画面を見たが、その数字は変わらなかった。少しだけ冷静になった頭で計算する。自分は5年間毎日このブログを開いてきたわけだから、1日1アクセスとしても、その数だけで約1800。つまりは、自分以外にこのブログをアクセスしている人は5年間で500人しかいなかったというわけだ。500人を5年間で割ると、約0.3。これはあまりに衝撃的な数字で、認めるのが本当につらかったのだが、3日に1アクセスしかなかったことになる。
 この事実を知った途端、いつも自分のブログにアクセスしているだろうと想像していた可愛い女の子や、ダンディな風貌の大学教授たちは全ていなくなった。ある日、本屋で立ち読みしている最中に、「もしかして『世界一いろんなことを考えている俺様のブログ』を書いている人ですか?」と握手やサインを求められるという、これまで何度も思い描いてきたシチュエーションが叶うこともないだろう。
 僕は辛い現実を受け止め、この筆を置くことにしよう。最後の記事のタイトルは「このブログを見ている人はいません」だ。これから自分がどう生きていけばいいのか、正直言ってわからない。ただ、誰も見ていなかったにしても、このブログを頑張って5年間毎日書き続けてきたことだけは褒めてあげたいし、そんな自分を誇りに思う。自分には実力があるのはわかりきっている。ほんの少し運が足りなかっただけだ。自分の心が落ち着いたら、また前とは少し違うテーマで新しいブログを書いて、世の中を驚かせてやろう。