事務のおばさん

 敏腕マーケティングコンサルタントの勝浦丈太郎が、今年ほどマーケティングというものがいかにあてにならないかを痛感した年はなかった。勝浦は、2012年の日本はトゥーマッチで異質であるものがウケるだろうと予言した。その兆候は確かにあった。“ももクロ”ことももいろクローバーZのような過剰に歌い踊りまくるグループの人気がとどまるところを知らず、日本人の好みは一気に変化したように思われた。もはや、おとなしいアイドルや商品は全て飽きられたのかと思われ、2012年のCM界やドラマ界は過剰な演出のもので溢れ返った。
 そのひとつの例をあげよう。“世界一過剰なドラマ”のキャッチフレーズで華々しくスタートした、『代々木のトラと武蔵境のクマ』だ。このドラマは代々木で発見されたトラが人間を襲い、そのトラを武蔵境に幽閉されていたクマが倒しに行くというものだった。こう書くと単なる動物バトルものに見えるかもしれないが、ここに芸能界の黒い闇問題、低迷する学校教育、家庭崩壊、年金問題、宇宙技術戦争、食糧危機、医師不足問題などの様々な問題が闇鍋のようにぶちこまれ、1回見ただけでは何のドラマだかさっぱりわからないほどの過剰さだった。
 テレビ局側はこのドラマを時代のニーズにマッチするものとして、視聴率35%を予想したが、実際のところは7%と低迷。このドラマを絶対にヒットすると予言していた勝浦丈太郎も、多くの人々からひんしゅくを買う結果となった。
 では、そんな過剰ブームの中でヒットしたものは何だったのか。それは教育テレビでひっそりと放送されていた『事務のおばさん』だ。このドラマの主人公である、46歳の独身女性・山本月子は文具メーカーに事務職として勤務しており、毎日大きな事件のない会社で淡々と仕事をこなす。ただそれだけのドラマだった。このドラマのプロデューサーを務めた川西幸恵は、「ここまでヒットするとは思っていなかった。ただ私がやりたかったのは、日常というものはいかに何も起こらないかということを示したかっただけです」と後に語っているが、本当に何も起こらない。ただ山本が書類にハンコを捺し続ける姿をえんえんと写し続けるだけだ。ただ、それだけに、たまに山本が怒ったときや、喜んだときは、その感情の起伏のインパクトがすごかった。また、山本は同僚たちと飲みに行くこともなく、外で遊ぶ友達が多いわけでもない。ただ、仕事が終わるとまっすぐ帰宅し、スーパーで買ったお惣菜をテレビを観ながら黙々と食べる。そのあたりの静かなリアリティも、これまでのドラマでは全く表現されていなかったものだった。
 『事務のおばさん』は18時半〜19時という、社会人にとっては非常に微妙な時間に放送されていたが、人々はこのドラマを観るためだけに定時で仕事を終わらせ、国民の平均総労働時間が2時間減ったと言われている。残業が多くなってしまったときは、中抜けして家でドラマを観てからもう一度会社に戻るという者もいたほどだ。このドラマは平日は毎日放送されており、なぜかリアルタイムで観たいという意見が多く、余程やむをえない場合を除いて録画する者は少なかった。
 『事務のおばさん』グッズは飛ぶように売れ、無名の大学生シンガー・KONPAが歌う『じむのうた』は50万枚のヒットを記録した。山本月子を演じた春日春江は売れない小劇団の専属女優だったが、『事務のおばさん』のヒット以降は映画やドラマ、CMにと引っ張りだことなった。おもちゃメーカーが作った超合金の事務のおばさん人形も子供たちに売れた。子供たちは人形をカバンに忍ばせ、放課後は砂場で戦わせた。
 ドラマの効果で、事務職への人気が高まったことも報告されている。それまでは地味な印象を持って迎え入れられていた“事務”という響きが急にクールなものとしてとらえられ、従来の事務職にはいなかったタイプの若者たちが殺到。従来の事務職の方々からは、事務職のイメージを好転させたということで、感謝の声も多く聞かれた。
 また、ドラマだけではなく、映画、アニメ、コミック、ライトノベル、カードゲームなどのメディアミックス展開も見せて、どれも大ヒットを記録。まさに日本中が“ジムオバ”ブームに湧いた1年となった。
 ドラマの中でこんなセリフがある。新入社員の若者が山本に向かって、「山本さんは夢とかないんですか? この会社で一生を終えるつもりですか?」と失礼なことを聞く場面があるのだが、それに対して山本は「夢はあるわよ。毎日を一生懸命生きること。それができれは働く場所なんてどこでもいいのよ」と言う。この場面の瞬間視聴率は60%を超え、多くの日本人の心に刻まれるセリフとなった。