日本を変えた小さなツボ

 そのツボが発見されたのは一説によると、2012年の3月頃であると言われている。発見された場所は定かではない。ほぼ時期を同じくして、日本の至るところで小学生たちの間で同時発生的に大流行した遊びがあったのだ。
 小学生たちは、後頭部にある髪の生え際にある、後頭部中央のへこみと、耳のうしろにある骨の“でっぱり”をむすんだラインの中間あたりに位置しているツボ「風池」の2ミリほど内側にある場所を押して遊ぶことを楽しんだ。この場所を押すと、途端に勉強をする気がなくなり、人間関係に悩むこともなくなり、要するに楽な気分になれる。そして何よりも、次々と斬新なアイデアが溢れてくるようになるのだ。
 この場所を押す遊びは、やがて小学生から中学生、高校生から大学生へと流行が伝播していき、大人たちの間でも大流行した。目の前のあれこれに縛られて出口が見えなくなり、しかも全く解決策がないという閉塞感に風穴を開けるような気分になるのだった。
 このツボはある有名コラムニストが「遊穴(ゆうけつ)」と名付けた。まさに読んで字のごとく、閉塞感に風穴を開け、心に遊びの部分を作り出すようなツボだった。面白かったのは、このツボがなぜか日本人にしか通用しないことだった。インターネット経由で日本での大流行が世界中に伝えられ、各国の迷える子羊たちがマネをしてこのツボを押したのだが、まったくその効果は見られなかった。科学者がいうには、日本人が持っているある特殊な回路にしか作用しないのだろうと言うことだった。
 日本人がここのツボを押すと、会議だとか事務資料だとか礼儀作法だとか、そういったものが至極どうでもいいことに思えてきて、新しく湧き上がる発想をとにかくトライしてみたくなる。失敗してもいいから、とにかくトライ。試して、試して、さらにアドレナリンが分泌する。これはそれまでの間、多くの日本人が最も苦手としてきた行動だった。
 国民たちがこぞって新しいことを始めようとするから、政府は最初大慌てをして、このツボを押すことを禁止しようとした。その頃すでに日本の組織という組織は崩壊しかけて、以前のようなきちんとした官僚国家に戻れなそうな雰囲気だったのだ。しかし政府がこのツボを押すことを禁止する法案を通そうとしてモタモタしている頃、突然日本の経済状況が好転し、自殺率まで減少しだした。政府はその状況を見て方向転換し、どんどん遊穴を押すように働きかけ、ラジオ体操に乗せて遊穴をひたすら押す、「遊穴体操」なるものを学校や企業などに導入した。
 老人たちは今まで築き上げてきた、きちんとした日本が崩れていくことを最初は嘆いていたが、自分たちが楽しく生きられるということを知ってからはどんどん遊穴を押すことを受け入れていった。
 2015年現在の日本は世界がもっとも羨む国家となっている。何よりも適当なのだ。適当と言ってもラテン系国家のそれとは少し違う。少しヤケクソになった適当とでも言おうか、真面目に勉強に打ち込んできた青年が大学に入って遊びに目覚めてしまったかのような。それまでいろんなものを詰め込んできた脳に穴を開けたのだから、溢れ出てくるものに勢いがあるのは当然だった。つまりは日本人が今まで苦しみながら積み重ねてきたことが、一気に楽しい方向へとシフトチェンジしたということだ。これは先人たちの軌跡に感謝しなくてならない。ただもう我々は、この力を楽しい方向に使えるとわかった以上は、責任をもって適当で楽しいことをやり続けなくてはならない。時代は日本人のターンなのだ。このツボが発見されたのは時代の必然なのだ。

ザ・斜面 胸についているその山は何だ

 2012年と2013年を境に世界は変わってしまった。2013年になると、見たこともない格好をした生き物が町中にあふれ出した。彼らの名前は33世紀警察。人類はようやく33世紀にタイムマシンを発明し、警察に人間たちが21世紀の暮らしぶりをチェックしに来たわけだ。そして21世紀のサンプルとして選ばれたのが2013年だった。
 なぜ33世紀警察がそんな大昔のことを調べに来たのかというと、暇だからだ。33世紀の日本は治安がよすぎるため警察の仕事が全くない。そこで国は、税金の無駄遣いをしておくのももったいないため、タイムマシンができたのをいいことに、過去の調査をさせることになった。
 33世紀の人間はミミズとよく似ている。テクノロジーが進化して、運動もしなくなり、手とか足とかあらゆる突起が退化した結果、このようなフォルムに落ち着いたというわけだ。
 ただ、未来の人間は過去の人間よりも偉いという風潮はあるようで、彼らはすこぶる偉そうだった。新橋の駅前でサラリーマンたちを止めて、持ち物チェックなどをした。21世紀人たちは反撃をしたかったが、彼らの持つ武器ニョロリンがあまりに破壊力がありすぎて歯向かうことができなかったのだ。
 そんな33世紀警察がやけにこだわったものがある。それは女性の胸だ。なぜそこまでこだわったのか理由はわからない。なぜなら33世紀には男女の性別が消滅しており、男が女性の胸に興味を持つという類の感情を持つことはありえない。それなのに彼らは女性を止めては「その斜面は何だ」と聞いて、角度を分度器で一生懸命測ろうとした。彼らは女性の胸を「山」とか「斜面」とかと呼んだ。33世紀に戻ってレポートを提出すると、とにかくもっとこの斜面についてのことを知りたいという者が多く、科学者たちが研究をしにやってきた。その調査結果をまとめた文献は数多く33世紀で出版され、そのどれもがベストセラーになったようだ。興味を持った講談社の編集者が、33世紀で一番売れたという本『ザ・斜面 胸についているその山は何だ』を21世紀の言葉に翻訳したものを出版したが、斜面の角度についてえんえんと解説がされており、21世紀の人間は誰もその面白さがわからなかった。

サビから始まるスローライフ

 ミュージシャンから文科省の官僚になったという異色の経歴の持ち主・湯月信吾がまたおかしなことを言い出した。湯月は現在の日本は急ぎすぎていると言い、そのためにはスローライフの導入が不可欠だと言った。国民からは、ゆとり教育が失敗しているじゃないか!という批判が寄せられたが、湯月はもっといい方法を思いついたからと言って持論を曲げようとはしなかった。
 湯月はある日、重大発表会見を行うと言って、テレビや新聞社などのマスコミを呼んだ。その模様はテレビで生中継されており、将来に展望が見えない若者や、閉塞感溢れる日本社会の中で身動きができない中年男性たちが固唾を呑んで見守った。
 湯月の第一声はこうだった。「日本のスピードが速いのは、すべて歌のサビの回数が原因です」と。湯月が言うには、音楽というのは人々の生活のリズムを作っているものである。人はそれを意識していないが、これだけは絶対に間違いない。そもそも3、4分の短い間の中に1曲を詰め込もうとしようとする試みが間違っている。せいぜいこの中には、サビが登場しても1、2回。これだと曲の良さを味わうこともできない。そのため、3、4分の曲を禁止して、もっともっと長い曲がヒットチャートに上れば、人々はその曲を最初から最後まで聴くために有給休暇をとるかもしれない。など。
 人々ははじめ半信半疑で、こいつは何を言っているんだ?状態だったが、湯月はすぐさま法律を改正してきた。サビが30回以上出てこない楽曲は全て違法だと言うのだ。この法改正を受けて、レコード会社はあわてて長尺の曲ばかりをリリースしてきた。ヒットチャートに上る曲はどれも240分とか、780分とか、昔の常識から考えると恐ろしいほど長い曲ばかりで、どれもサビが100回くらい登場した。しかし、慣れというのは恐ろしいもので、人々は気に入った曲があると、友人との誘いを断り、インターネットやゲームや携帯やテレビをオフにし、1曲を最初から最後まで聴くことに集中するようになった。これにより、新宿駅を歩いている人の群れも、5年前には人々の歩く平均速度は時速3キロだったのだが、これが時速0.8キロまで低下した。駆け込み乗車もなくなり、スピード違反をする車もなくなった。
 この政策で国民の支持を上げた湯月は総理大臣になった。湯月は自分の成功に味をしめ、さらに厳しい法改正を発表した。それまでサビが30回以上出てこない曲が違法だったものが、2万回以内の曲が違法だとしたのだ。もちろん国民からの戸惑いの声はあがったが、順応するのが早い日本人はすぐにこれを受け入れた。今週のヒットチャートの1位にランクインされている嵐の『ロングロングロングロングロングワインディングロード』は552時間(23日間)という驚異的な長さの楽曲だが、すでに27万枚を売り上げた。サビは8500万回も登場するが全て歌詞は違うというのだから驚きだ。この曲をレコーディングするに当たって、嵐のメンバーは交代で睡眠と食事をとりながら歌ったらしい。
 現在は他の先進国も、日本の試みが正しかったとして、後に続けとばかりに長尺の曲を次々とリリースし始めている。サビを増やせば、人々の暮らしの速度が下がる。人間なんてこんなに単純なものなのだ。湯月は次のノーベル平和賞の候補にも上がっている。

ビートルズ宇宙人説(再録)

 タカシが会社から帰ると、3歳の息子のソラが今日もビートルズの『Across The Universe』を一心不乱に聴いていた。
 タカシは心配になり、妻のサヨコに聞く。「また聴いてるの?」
「朝から晩まで、ずーっとね。もう何百回、何千回と聴いてるわ。こっちが話しかけても、うんともすんとも言わないのよ」サヨコもここ数日のソラの行動に疲れているようだ。
「今日ニュースでもやってたぞ。世界中の3歳児が『Across The Universe』を何かに憑依されたかのように聴きまくっているって」
「もう、どうなってるのかしら。こんなお経みたいな曲のどこがいいのよ」サヨコがため息をつく。


 あれは3日前のことだ。ソラが突然タカシのCD棚を覗き、ごそごそとビートルズのCDを漁りはじめた。タカシとサヨコが興味深そうに見つめていると、ソラはアルバム『Let It Be』を取り出し、いじったこともないはずのCDプレイヤーにセットして、『Across The Universe』を流した。
 タカシとサヨコは呆気にとられてソラの行動を見ていたが、おそらくタカシがいつもCDをかけるのを見ていて、それを真似したのだろうと言うことで落ち着いた。
「最初に聴きたい音楽がビートルズだなんて、あなたに似たのね」
 EXILE青山テルマにしか興味がないサヨコは、そう言って笑った。
 しかし、それからのソラの行動は明らかに異常だった。寝ていない時間はわき目もふらずに、同じ曲を再生している。食卓に食べ物を置いても興味を示さないので、サヨコが無理矢理食べさせた。
 事件が起こったのはタカシの家だけではなかった。会社の同僚は、ビートルズのCDを3歳の息子がどこからか手に入れてきたと驚いていたし、ニュースを見ると世界中の3歳児が同じ行動をとっていると言う。
 もはや“ビートルズは3歳児の心をもとらえて素晴らしい”と言った楽観的な見解も聞こえなくなっていた。いまや地球温暖化以上に、大人たちを悩ませる事象となっていた。


 そんな謎がついに明かされる時がやってきた。
 その日の夜中、タカシが目を覚ますと、ソラが窓の外を見ていた。その姿は我が子ながら不気味だった。まるで3歳児とは見えないような、堂々とした佇まいで、確信を持ってある目的に向かって突き進んでいるようだった。CDプレイヤーからはまたも『Across The Universe』が流れている。
 窓の外を見ると、夜空が猛スピードで動いていた。まるで全速力で地球がどこかに向かっているようだった。
 タカシがサヨコを起こそうかと迷っていると、ソラが振り返り、言った。
「目を覚ましましたか」
 それはソラの声ではなく、どこかの経済評論家のような明晰な声だった。ソラは自信に満ちた調子で語り続ける。
「驚いたのも無理はありません。我々が帰る時がやってきたのです」
「何を言っているんだ、ソラ?」
「説明しましょう。地球とは、500万光年離れたマバルホ星の人々が46億年前に作ったものです。マバルホ星人は、生命が育ちやすい太陽系に地球を置き、生命を育んできました。しかし、人間が生まれ、文明も現れ、そろそろ機は熟したと思っていた矢先に、人間たちは戦争を覚え始め、生命の存続に危険信号が点りました。そこで、マバルホ星たちが地球の救世主として送りこんだのがビートルズです。つまり、あなたたちが喜んで聴いていたビートルズは宇宙人だったなのです。あ、ご安心ください。私は地球人です。タカシさんとサヨコさんの子です。ビートルズは、地球を平和にするために名曲を生み出しました。人々はビートルズのメロディに酔い、平和を愛し、戦争を憎んだ。ビートルズの役目は終わりました。そのミッション終了の合図となったのが『Across The Universe』だったのです。この曲を作ったジョン・レノンは地球での任務が終わったため、マバルホ星人の手によって、いったん命を回収しました。今、ジョンはマバルホ星に暮らしています」
ジョン・レノンが地球を去ったのは1980年だろ。じゃあ、なぜ今なんだ?」タカシは寝ぼけた頭を整理しながら聞く。サヨコがいつのまにか起きて、タカシとソラのやりとりを聞いていた。
「マバルホ星人はもう少し様子を見たいと思いました。30年待って、平和がどのくらい浸透したのか確認しようとしたのです。その後は小さな戦争は起こりましたが、全体的な流れは明らかに平和に近づいているようでした。それで、もう一度『Across The Universe』を地球上で鳴らし、マバルホ星に帰すことにしたのです」
「ちょっと待て。『Across The Universe』を鳴らすと、何が起こるんだ」
「ジャイグルデバオムというのはマバルホ星人との交信の呪文です。3歳児の子供たちに何度も聴かせることによって、彼らは私たちに惑星の操縦法を教えてくれた」
「そもそも、なぜ3歳児なんだ。大人でもいいじゃないか」
「惑星を動かすのは子供にしかできません。子供は大人になるにつれて成長していくと思われていますが、実際には退化していく一方なのです。ただ、1歳児や2歳児では自我が目覚めてなさすぎる。3歳児というのが、もっとも気力、体力ともに充実しているのですよ」
「じゃあ、今この地球はおまえが操縦してるんだな」
「そうです。正確には僕ら。世界中の3歳児ですが」
「なるほど」タカシは深く息をついた。「ようやく理解できた」
「私も」サヨコも理解したようだ。
「地球の運命はおまえたちにかかってるわけだ」タカシがソラの肩を揉みながら確認する。
「はい。頑張りますよ」
「俺たちに何ができる? なんかうまいもの食べたくないか」
「じゃあ、ハンバーグを」
「わかったわ。ハンバーグね」サヨコが急いで台所に走る。
「もう、親とか子とかこの際、関係ないよな」ソラの肩を揉むタカシの手にも力が入る。
「実際、関係ないと思いますね。年齢なんてものは、地球でしか通用しない概念ですから。一緒に力を合わせていきましょう」
「ソラさん、よろしくお願いします」タカシは冗談っぽく頭を上げた。
「そんな、かしこまらなくていいですよ。いつものようにソラでいいです」ソラが笑う。サヨコの笑い声も聞こえる。
「じゃあ、ソラ。よろしく」
「任せて下さい。お父さん、お母さん。ちょっと加速しますからね」
 ソラがそう言い、星空がさらに速いスピードで流れだした。タカシは『Across The Universe』のサビのボリュームを上げる。ジャイグルデバオム。

ドラえもん のび太とレンタルインド人(再録)

 今日、俺の家にレンタルインド人なるものがやってきた。俺が住む板橋区では、他の区よりも区民の国際化をはかるために今年度からレンタル外国人を各家庭に派遣するシステムが採用された。
 板橋区役所が考えるところによると、日本人は外国人と触れ合う機会が圧倒的に少ないため、国際感覚が他の国に比べて劣っている。それならば、半ば無理矢理でもいいから外国人と接する機会を与えてやれば、国際感覚が身につくのではないかと考えた。
 そこで板橋区役所の職員は、板橋区をブラブラしている外国人に声をかけてスカウトし、各家庭にレンタルすることに決めた。しかしここで問題だったのが、レンタルを希望する世帯を募ったところ、1件も寄せられてこなかったため、板橋区はなんと裁判員制度のように抽選でレンタルする家庭を選んだのだ。新聞に目を通さない俺は、3月の頭に派遣決定のの電話がかかってきた時、何のことだかさっぱりわからなかったが、「もう決定事項ですので、キャンセルはできません」と恫喝するように言われて渋々と同意した。
 こうして俺の一人暮らしの家にレンタルインド人がやってきたわけだ。ピンポンベルが押されたのでドアを開けると、そこには190cmほどある大男が立っていた。玄関に黙って突っ立っている男を、俺は椅子に座らせた。俺の家は6畳しかないため、立っていられると、それだけで息が詰まってしまう。
 男の名前は3号と言った。区役所によると、レンタル外国人の素性がバレてしまうと、のちのちのトラブルにつながる可能性もあるから本名は内緒にしているとのことだった。3号はカタコトながら日本語が理解できるというので、俺は何か話しかけようと思ったが、何を話していいのかわからなかった。第一、俺は外国人というものと話したことがないのだ。
 そんな俺の戸惑いを察したのか、まず3号から話しかけてきた。
「君は、学生?」
「そうだね」
「そうか」
 ここでしばらくの沈黙が続く。
「カレー、好き?」
「好きだね」
「そうか」
 再び沈黙。どうやら3号には会話を広げる才能がないらしい。
「3号はカレー作れるの?」
 今後は俺が会話を続けようとする番だった。別に本気でカレーを作ってほしいわけではない。俺の家の台所は2年ほど使っていないので、誰にも使わせたくない。
「ノー」
 しかし、その目論見はあっけなく崩れ落ちる。俺は3号のスパイスのような体臭に耐えられなくなり、のり塩のポテトチップスを開けた。すると3号も断りもせずに、チップスをつまみ始める。部屋にのり塩の匂いとインドのスパイスの匂いが充満する。
 一体どうすればいいのだろうか。俺は考える。このままこのインド人は夜まで居座るつもりだろうか。区役所の規定によると、レンタル外国人の有効時間は最低12時間で、もしも気が合えば延長は自由とのことだった。最低12時間ということは今から深夜の3時までは一緒にいなくてはいけなくなる。そんな時間までずっとこんな緊張感が続くと思うと耐えられるわけがないではないか。
 我慢できなくなった俺は3号を外に誘うことにした。
「3号、外に行かないか?」
「どこへ行く? 外は寒い」
「映画を観に行こう」
 俺はもともとドラえもんの新しい映画を観に行くつもりだったので、3号を連れて行くことにした。映画を観ている間は喋る必要がないわけだから、一石二鳥だ。

 吉祥寺の映画館に入ると、3号は興奮しているように見えた。3号が言うには、インドでは映画を観るのが一番の娯楽で、家族や恋人、友達と毎週のように観に行っていたらしいが、日本の映画館は初めて入るとのことだった。
 そして映画が始まった。ドラえもんの新作映画『のび太の人魚大海戦』は予想以上に素晴らしかった。ここ何年かリメイクが続いていたので、どうなることかと思ったら、設定や脚本が素晴らしく、お約束の泣けるシーンも随所に盛り込まれていた。そして何よりも、ソフィアさんというヒロインのキャラクターが輝いていて、俺はすぐに夢中になった。これは会う人全員にすすめるべき快作だと痛感し、何度も心の中でガッツポーズをした。
 それは3号も同じ気持ちだったようで、俺たちは映画を観終わった後、しばらく動けなかった。3号の横顔を見ると、涙が何筋も頬をつたっていたのがわかった。
 それまで映画を観るまではよそよそしい空気だった俺と3号の間には、のび太たちに負けないような友情のようなものすら芽生えていた。きっとドラえもんのメッセージを体中に強烈に浴びたせいなのだろう。俺と3号はその後、居酒屋で酒を飲み、2人ともグデングデンに酔っ払って家に帰った。次の日は俺が3号のことをたたき起こして、東京大仏に連れて行き、2人で大笑いしながら近くのバッティングセンターで打球をかっ飛ばした。

ロック少年がEXILE好きな女子の気を惹くための23の方法

 ロック少年をターゲットに絞った恋愛ハウツー本『ロック少年がEXILE好きな女子の気を惹くための23の方法』が20万部を超えるベストセラーとなっている。高円寺に住む猿橋修平はこの本を南口のヴィレッジヴァンガードで見つけ、寝る間も惜しんで1日で読み終わった。その後も気になった箇所に付箋をつけ、ことあるごとに読み返した。
 その内容を簡単に抜粋すると、
「ロックに固執していると世界は開けない。ロックのCDを全部捨てて、EXILEのCDを揃えよう」
EXILE好きな女の子と話を合わせるために、メンバーの名前は全部覚えよう」
「色白の肌は不健康な印象を与えるので、EXILEに匹敵するくらい肌を黒くしよう」
「たとえなかなかEXILEの良さが理解できなくても、“俺はEXILEが好きだ好きだ”と自己暗示にかけることで、EXILEを心から好きになれるように努力しよう」
「それでもEXILEの良さがわからないという人は、まずEXILEのライブに通い続けよう。ロックのライブとはまた違ったスケールの大きさに圧倒されるはず」
などと言うものだ。
 猿橋は著者の加賀めり子が渋谷で講演会を行うことを知り、迷わず出席を決めた。会場となった小奇麗なイベントスペースには定員名を遥かに超える250名が殺到。その95%が男だった。加賀が事前にとったアンケートを笑いながら読み上げる。
「今日の参加者の皆さんは、好きだったバンドの欄を見ると、RADWIMPSとか神聖かまってちゃんとかKIMONOSとかサカナクションとかアジカンとかBAWDIESとかBUMP OF CHICKENとかHIATUSとか、いかにもロックバンドにお熱をあげているロック少年たちが集まっているようですね」猿橋はその全てのバンド名を書いていて、少し恥ずかしい気持ちになった。「あなたたちみたいな人たちは、きっとEXILE好きな女子たちに苦戦しているのでしょう。みなさんはすでに本を読んだかと思いますが、今日はもう少し突っ込んだ実戦トークをしていきたいと思います。いいですか?」
 ロック少年たちはシャイなのか、誰も「はい」と声に出すものはいない。ただ、じっと加賀を見つめ、一言も聞き漏らしてなるものかとメモをとっている者もいた。
「じゃあ、オルガちゃん、出てきてちょうだい」
 ケイティ・ペリーの『カリフォルニア・ガールズ』が爆音でかかり、そこに現れたのは髪の毛をクリンクリンに外巻きにしたギャルだった。ロック少年たちが息を飲む音が聞こえる。どうやら、オルガちゃんの容姿はロック少年たちの心を一発でとらえたようだった。猿橋はドキドキしてしまい、オルガちゃんを直視することができない。
EXILE大好き、オルガでーす。某有名国公立大学に通っていて、特技はドイツ語です。将来はエコノミストになろうと思っていまーす」
 国公立、ドイツ語、エコノミストといった、いかにもギャルっぽい外見に似合わないような言葉が次々と飛び出し、ロック少年たちはたじろぐ。「国公立とか無理だわ。俺、高卒だし」と猿橋の隣に座る長髪の青年が呟いた。猿橋は中堅の私大を卒業しているので、なんとかオルガちゃんとギリギリつりあうかもしれないと妄想した。
「オルガちゃん、可愛いでしょ? みんなきっと好みでしょう? どうかな、そこのチャットモンチーのTシャツを着たメガネくん」
 猿橋はいきなり加賀に当てられ、心臓が止まりそうになったが、「正直、好きです」と本音を漏らしてしまう。会場から失笑が漏れるが、そこには「俺も、俺も」という意味合いが含まれていた。
「今日はこのオルガちゃんに実際にアタックしてもらい、オルガちゃんが気に入れば連絡先を交換してもらい、うまくいけばデートできるかもしれません。考えるよりも、まず実践! 私の本をちゃんと読んでいる男の子だったらできるよね?」
 ただの講演会だと思っていたのに、いきなり目の前の美少女とデートできるかもしれないと言われ、会場の空気がかすかに色めきたつ。
「それでは、時間も限られているので、さっそく行きましょうか。オルガちゃんを口説いてみたい人、手を挙げてください」
 しかし、さすがにいきなり口説けと言われるとハードルが高いのか、手を挙げたのは20人ほどだった。猿橋も勇気を出しておずおずと手を挙げる。加賀が順番に当てていき、それぞれがオルガちゃんに自分をアピールする。たとえば、FACTが大好きだったという25歳の会社員はこう言う。
「僕は先生の本を読んでロックのCDを全部捨てました。今では僕の部屋はEXILE一色です。EXILEタペストリーにEXILEの筆入れ、冷蔵庫にもEXILEのマグネットを貼ってます。オルガちゃんが家に来たら、きっと満足してもらえると思います」
 吉井和哉を神と仰いでいた38歳の経営者はこうアピールする。
「先生の本を読んでから、EXILEのファンブログを開設しました。EXILEファンの人たちと交流をはかるたびに、自分の世界が広がっていくのを感じました。オルガちゃんはまず、僕のEXILEファンブログを読んで、僕がどれくらいEXILE好きかを判断してほしいです」
 メジャーなバンドには興味がなく、ライブハウスで有望インディーバンドの青田買いをするのが趣味だったという19歳の学生はこう声を荒げる。
「インディーインディー叫んでいた頃の自分は、虫けらのようなものでした。僕は先生の本を読んで世界が広がり、あの頃にはもう絶対に戻りたくありません。この自分の体験をもとに、EXILEが人の世界をいかに広げるかを説く自己啓発セミナーもしくは新興宗教を作ろうと考えています。オルガさんにはぜひ僕のそこでの仕事ぶりを見て、ついてきてくれれば嬉しいです」
 猿橋は彼らのアピール度の高さを見て自信をなくしていたが、ついに自分の番が回ってきてしまった。
「僕は…まだEXILE好きになって日が浅いのですが、これからもっともっと好きになれるかと思います。他の人たちに比べてもまだまだマニア度は低いですが、むしろオルガさんにいろいろ教えていただいて、僕がEXILEにハマっていくその過程を、その伸びしろを一緒に楽しんでもらええればいいなと思います」
 こんな答えで勝てるわけがない、そう思いながら絶望的な気持ちで残りの男たちがアピールしていくのを静かに聞いていた。そして手を挙げた全員がそれぞれのアピールを終えた後、加賀が感想を言う。
「どれも正解ね! そうなのよ、ロック少年の子たちは、EXILE好きの女の子を外国人のように見ているでしょう。そんな姿勢だと、距離は縮まりません。まずは異文化交流だと思って、趣味の違いを楽しんで、相手の気持ちになりきってみるのが大切なんです。それだけであなた自身の世界が広がるんです」オルガちゃんがうんうんと頷き、その可愛い仕草にまた猿橋の心はときめいた。
「じゃあ、今までアピールをした中から、オルガちゃんの一番心に響いた人を選んでもらいましょう。オルガちゃん、誰がいい?」
 男たちが息を呑む。オルガちゃんは下唇を1回噛み、ニコッと笑い、そして言った。
「なんとかモンキーのTシャツを着ている猿橋さん」
 男たちの嫉妬にまみれた鋭い視線が濁流のように猿橋に注がれる。猿橋はまさかと思い、立ち上がる。「おめでとう! じゃあ猿橋さん壇上に来てください」加賀に言われ、壇上まで歩いていく。 
 ペコリとオルガちゃんに会釈をし、オルガちゃんがウフフと笑う。すると、加賀が妙なことを言った。「ちょっと待ってね。最後に儀式を行いましょう。猿橋くんが本当にロック好きである自分を捨てたのか。口先だけの誓いじゃ、女の子は納得しませんからね。猿橋くんには今ここで踏み絵をしてもらいたいと思います」
 加賀が手に持っていたのはロッキングオンJAPANだった。無造作に自分の足元に置かれたロッキングオンJAPANを見て、猿橋は戸惑う。確かに加賀の本を読んで、ロックのCDは全部捨てた。それでもロッキングオンJAPANは自分の人格を作り上げ、むしろ自分の血となり肉となったものだ。それを踏むことなんてできるはずがない。
 なかなかロッキングオンJAPANを踏まない猿橋を見て、会場が不穏な空気になる。それでも猿橋はどうしても踏むことができず、「ごめんなさい。僕はこの雑誌だけは踏むことができません。僕は自分にとって大切なものを踏みにじってまで、目先の愛をとろうとは思いません」と言って、ドアから走り去っていく。背後からは男たちの嘲るような笑いが聞こえてきた。
 実はこの話には後日談がある。オルガちゃんはそんな猿橋の行動を見て、猿橋に興味を持った。主催者に猿橋の連絡先を聞き、個人的にコンタクトをとった。本来ならオルガちゃんは、講演会へ出席することをただのバイト感覚でとらえ、選んだ男とデートする気は全然なかったらしい。それが猿橋の思い切った行動を見て心を打たれ、もっと知りたいと思うように至ったのだ。
 猿橋とオルガちゃんは現在、高円寺に新しいアパートを借り、一緒に暮らしている。猿橋は捨ててしまったロックのCDをもう一度買い直したが、EXILEの良さをわかった今、部屋ではEXILEとロックの流れる割合が半々だ。オルガちゃんもロックの魅力を猿橋に教えてもらい、2人がカラオケに行くとロックとEXILEの曲が交互に歌われる。猿橋の好きなEXILEの曲は『FIREWORKS』で、オルガちゃんの好きなロックの曲はモーモールルギャバンの『サイケな恋人』だという。

奥田民生になりたい子供たち(再録)

 これはどうしたことだろうか。
 栗原は集められたアンケート用紙を読みながら、頭を悩ませていた。放課後の職員室には、もう誰もいない。他の先生方が帰った後にアンケートをゆっくり読もうと思っていた。
 教師という職業に、栗原は飽き飽きしていた。毎年毎年同じことの繰り返し。しかも年々小さな諸問題はややこしさを増し、苦労が減ることなどない。そんな中、こうして年に一回とるアンケートを読むのが、栗原の唯一の楽しみとなっていた。
 栗原は大学を卒業して教師になって以来、毎年生徒たちに匿名でアンケートをさせていた。「君は将来、何になりたいのか。どんな大きな夢でもいいから書いてくれ」というお題だ。名前を書かせると、子供たちは変に教師の目を意識してしまう。それが、匿名となると、自由に思ったことを書く。そんな彼らの本心に触れることができるのが栗原にはうれしかった。短い期間の付き合いではあるが、自分が彼らの成長に関わるわけだから、それくらい知る権利があるじゃないか。そう思っていた。
 栗原が担任を受け持つのは、小金井第一小学校の4年2組だ。昨年まで担当していたのが6年生だから、4年生とは初めて接することになる。昨年のアンケートの結果としては、「サラリーマン」「公務員」が圧倒的に多かった。中学受験でヒイヒイ言っている6年生だけに、現実的になるのは仕方ないのかもしれないが、栗原は少し残念に思った。小学生にはもっと無邪気に大きな夢を語ってもらいたい。
 今年は4年生なだけに、昨年よりかは夢らしい夢を語ってくれる子供が多いはずだ。まあ、今年は昨年よりも不景気が深刻だから、多少は公務員が増えていても覚悟しよう。そんな思いで、期待を呑み込みながら結果を見た。
 すると、そこには栗原が予想もしないことが書かれていた。 
 クラスの42人全員が、将来の夢は?の問いに「奥田民生」と書いていたのだ。栗原は最初、目を疑った。文字の形から言って、「民生委員」とか「模範人民」とか「熱血先生」とか、そういう職業名のようなものに見えたが、それらは何度見ても、あの「奥田民生」だった。


 翌日、栗原は1時間目の算数の授業をつぶして、緊急の学活を開いた。子供たちは、自分たちが怒られるのではないかと思い、緊張しているのが伝わってくる。
「先生がこうしてみんなを集めたのは、昨日のアンケートが原因だ。昨日のアンケートで、全員が何と答えたか知ってるか。奥田民生だ。僕は毎年同じアンケートをやっているが、その中では、サラリーマンとか公務員と書く子が多いのが普通だ。もしくは、ナースとか歌手とかプロ野球選手とか、そういう職業名を書くものだ。なのに、今回はなぜか個人名だ。これが何を意味するのか僕は知りたい」
 一拍おいて栗原は語気を荒げる。「これは何かのイタズラなのか? 誰かが申し合わせて、僕を混乱させようとしたのか?」
 教室内は静まりかえっていた。「だとしたら、僕はショックだ。夢を語ることに、そんな悪知恵を使ってほしくない。そんなことをしたら、夢の神様のバチが当たる」
 子供たちからは何の意見も出てこず、栗原は続けた。「よし、わかった。じゃあ、100歩譲って、全員が奥田民生になりたがってるとしよう。でも、そもそも君たちの世代は奥田民生など知らないはずじゃないか。奥田民生は僕たちの世代の人間だ。僕が生まれたのは1976年。中学の時にはユニコーンを聴いて育った。はっきり言って大ファンだ。今でも追いかけているし、ユニコーンの再結成ライブも行った。カラオケに行ったら民生の書いた曲しか歌わない。自分の声のキーに合っているから歌いやすいんだ」栗原は自分のことを語りすぎているのに気付き、話を戻した。「まあ俺の話はいいさ。とにかく、誰だ。誰がきっかけになって、奥田民生を広めたんだ」
 すると、小さな声で「先生」と聞こえた。クラスで一番勉強ができて、真面目さと清楚さの日本選手権を行ったら間違いなく1位になるような香取桃香だ。彼女は言った。「私です」
「え? 香取、おまえが?」栗原は耳を疑った。
「そうです」香取は小さい声で話し続ける。「私は生まれつき真面目で小心者で、学校の勉強や人間関係で日々いっぱいいっぱいでした。私たちの世代は将来どうなるかわからないし、このまま勉強を続けていても、いいことあるのかな?って不安に苦しんでいました。そんな時、私の父の部屋から、なんか落ち着く歌声が聞こえてきたんです。それが奥田民生でした。私は父が留守の時にこっそり部屋に忍び込み、CDを聴きまくりました。そうすると、すごく気持ちが楽になったんです。こんな風にリラックスして生きていいんだって。人生って楽しいこともいっぱいあるんだって。それで、他の人にも聴いてもらいたくてCDを焼いたら、みんな気に入ってくれて」
「そうだよ、先生」学校で一番の問題児と言われていた山下卓が立ち上がった。彼は4年生とは思えないほどガタイがよくて、ひとつひとつの動きに迫力がある。「俺だって、好きでケンカばかりしていたわけじゃないよ。何だかわからないけど、いつも何かに不満があったんだ。それが、香取に貸してもらった奥田民生のCDを聴くことで救われた。自分に不満があるからって、周りに当たり散らすのはバカバカしいなあって思ったんだ」確かに、山下はここ数ヶ月ピタリとケンカをしなくなっていた。
「私だって」「俺だって」教室中から、香取と山下に賛同する声が次々とあがった。
「ちょっと待て。わかった。君たちが民生の音楽に魅せられたのはわかった。だからと言って、将来の夢が奥田民生になるのか? 全員が全員そう思っているなんて、さすがにありえないだろ。これは誰かが仕掛けたんだよな」そう栗原が聞くと、全員が首を振った。
「それはたまたまだと思います」香取が話す。「私は本当に奥田民生になりたい!って思ってたけど、みんなが同じことを思っているだなんて」
 栗原は呆気にとられていた。奥田民生の影響力は彼の予想を遥かに超えていた。「OK、わかった。でも、言っておくが、生物学的に違う人間になることはできないんだ。君たちは君たちでしかない。いくら奥田民生になりたいと言ったって、あくまで、奥田民生のように生きることしかできないぞ」そう不安そうに言うと、子供たちは笑った。「当たり前じゃないか、先生。ただ、みんなが奥田民生のように生きたいって思っただけだよ」山下が言う。
 なんだ、そうか。それを聞いて栗原は安心した。なんて楽しみなクラスなんだ。
「よしわかった。じゃあ、君たちのその奥田民生愛に免じて、今日は授業をせずに、俺の奥田民生DVDコレクションをじっくりと見せてやる」
 生徒たちからは歓声があがった。栗原は電気を消して、スクリーンを下ろし、教卓の引き出しから取り出したDVDを再生する。栗原には、生徒たちの目が輝いているのが見えた。民生の粘っこい歌声が教室にこだました。