大分県を知らない東京の高校生

 寒さが私を苦しめる。私は夏を追いかけて生きるのよ。

 そう書き置きを残して、山崎高校の3年3組の担任教師カサハダキョウコは消えた。他の教師たちはもちろん戸惑った。職場放棄はクビにしろという過激派と、ストレスが溜まっていたのだから仕方がない、しばらく待ってみようなどの穏健派の真っ二つに分かれ、父兄や生徒を巻き込んでの大論争が繰り広げられた。行き先は全くの不明だった。地球上に暑い国なんて、いくらでもある。キョウコ先生の机のカレンダーが海の柄であることから、南の島が有力だと思われたが、真相は闇の中だった。
 キョウコが担任を受け持つ3組の生徒も上を下への大騒ぎだった。ある者は、この混乱に乗じて遊び呆けようと考え、ある者は10月というこの時期に担任がいなくなると自分たちの受験にどんな悪影響を及ぼすことになるのかわからないと頭を抱えた。そんな中で、ヨドウマモルは、全く今回の騒ぎに動揺していなかった。その堂々とした姿を見て、マモルの隣りの席に座るカトウワカナが尋ねてきた。
「マモルくん、なんでそんなに落ち着いているの。担任がいなくなったっていうのに。あなたのそういう不謹慎なところ、私は苦手だな」
「僕はキョウコ先生の行き先を知っているんだ」
「え」ワカナは目を丸くした。「嘘でしょ。嘘。あなた、またそうやって私たちを混乱させようとして」
「嘘じゃない。先生は僕に伝えたんだ。大分県へ行くって」
「お、大分県? どこなの、それは?」
マモルはあきれた。「君は仮にも大学受験を目指しているんだろ。大分県を知らないだなんて、同じ日本人として恥ずかしいよ」
 ワカナは口をすぼめて、すねた表情をした。「だってー」甘えてるのだ。この表情がたまらないと、クラスの男子たちが騒ぐのをよく聞いたことがあるが、マモルにとっては全く魅力的に映らない。マモルは会話を中断させようと、手元の文庫本に目をやった。
 そんな自分の媚びた表情にマモルがなびかないと思うやいなや、ワカナはいきなり高く手を挙げ、そして言った。「みんな、聞いて。キョウコ先生の居場所を、マモル君が知ってるって」
 騒然としていた教室は一瞬静まりかえり、すぐにまたどよめいた。何人もの生徒がマモルとワカナの周りに集まってきた。
 マモルはワカナをにらんだ。ワカナはマモルにアッカンベーをした。私に関心を持たないことに対する復讐だとでも言いたいのだろうか。そんなワカナが大嫌いだ。マモルはそう思った。しかし、状況は決して良好とは言えない。いまやクラス中の生徒がマモルに答えを求めているのだ。
「どこなんだよ、言えよ。マモル」クラス一のガリ勉であるキノシタがマモルに詰め寄る。
 マモルは仕方がないと思った。別に先生から秘密を守るように言われたわけではない。先生のことが特別に好きなわけでもない。だから、答えを明かすことにした。「大分県だよ」
 すると、クラス全員が異様な空気に包まれた。皆は口々に言った。「どこだよ、それ」
 マモルは耳を疑った。ワカナだけではなく、このクラスの全員が大分県がどこにあるのかを知らないのだ。いや、「どこ」と言うよりも、「何」と言ったほうがいいかもしれない。彼らにとっては、オーイタケンは中国語やドイツ語のように聞こえるのだろうから。
 この分だと、こいつらの親はもちろん、他の教師でさえ大分県のことを知らないに違いない。彼らにとって、キョウコ先生の居場所は、この世ではない四次元へと飛んでいったものと変わりないのだ。きっと先生の居場所は永遠に見つからないに違いない。やったな、先生。マモルは口元に不敵な笑みを浮かべ、髪の毛をかきあげた後に再び文庫本に目を落とした。