毛髪のススメ

 私は、悩んでいた。
 どれくらい悩んでいたかというと、役所で書類を記入する時に自分の名前を忘れてしまうほど悩んでいた。
 私には好きな人がいた。私が受付をしている会社に勤める男性だ。彼の正確な役職はわからないが、毎日一度だけコンタクトする機会がある。彼がその日の来客リストを手渡しにくるのだ。
 しかし、接点はそれだけ。私は彼に「お疲れさまです」しか言うことができない。私は自分からアプローチができるタイプではなく、これまでもいつも相手からの告白を待つばかりだった。しかし、彼は、どんなに私が着飾ってても、気合いを入れた化粧をしても、甘い言葉はかけてこない。デートに誘ってほしいのに。毎日それを願っているのに。
 ある日、私の友達のエムちゃんに相談したら、「女性は髪の毛だ」と言われた。エムちゃんは気になる男性に見向きもされなかったが、髪の毛を切った途端に告白されたらしいのだ。その男性は三度の飯よりショートカットが好きだった。
 私はもともと髪の毛が長いのが自慢だったので、エムちゃんみたいに切る自信はない。子供の頃から60センチよりも短くしたことがない。気になる彼もショートカットが好きか保証はないので、私は新たな攻め方を開発することにした。匂いだ。
 半年ほど前の雑誌で「男性をその気にさせる匂い」という特集があったので、引っ張りだして真似することにした。エロスを匂い立たせる香水や、癒しを与える香水はもちろんのこと、コーラや日本酒、トイレの芳香剤など、ありとあらゆる香りを髪の毛につけて、彼の反応を試した。彼がリストを手渡す瞬間に、私の自慢の髪の毛をなびかせて、匂いを振りまくのだ。
 毎日彼の表情を見ているうちに、あることに気付いた。どうやら彼は、一般的な香水の香りには興味を示さないようで、いわゆる変化球的な香りに興味を示すらしい。それらの微妙な変化を私は見逃さなかった。
 それからというもの、私は彼の匂いの傾向を突き止めていき、ある結論に至った。彼は間違いなく、魚介類の匂いが好きだと。
 その事実に気付いた日、私は近所の魚屋に行き、タコ、牡蠣、ウナギ、くさや、シジミなど、匂いの強そうな魚介類の匂いを髪の毛に振りまき、翌日の本番を待った。あまりにも匂いがヘヴィだったため、その日は一睡もできなかった。
 そして、いよいよ本番当日。朝の満員電車の中では乗客に鼻をつままれ、「生ゴミ女!」と暴言を浴びせられる始末だった。しかし、これがもう最後だ。失敗したら、受付の仕事を辞めるつもりでいた。
 彼が来るまで、なるべく自分が気を失わないように、口で息をし続けた。あと少しの辛抱だと、自分に言い聞かせながら。
 そして、忘れもしない午後2時16分。彼がやってきた。私は高鳴る胸を抑えながら、全力で髪の毛をなびかせた。ぶわっ。
 すると、彼はいきなりトイレへと駆け込んだのだ。
 失敗した。そう思った。彼は今頃トイレで嘔吐しているのだ。これまで微妙な表情を見せていたのは、匂いが不快だったからに違いない。あまりの自分の滑稽さに涙が出てきた。生ゴミ女と後ろ指をさされながら、私は仕事を辞めるのだ。
 すると、彼がトイレから戻ってきて、満面の笑顔でこう言った。
「こんな素敵な匂いをさせる女性に初めて出会った。あまりの感動で、トイレに行って泣きじゃくってしまいました。今度、『グラン・トリノ』でも観に行きませんか?」
 私たちはその後、結婚し、魚介類の強烈な匂いがする港町で暮らしている。