僕と彼女とアマルフィ

 僕の全身はガクガクブルブルと震え、目からは涙がとめどなく溢れていた。こんなにも人の心を打つ映画がこの世にあるなんて…。『アマルフィ』はおそらく人類史上、もっとも秀逸な映画だ。芸術だ。爆発だ。この映画が今、僕の人生を180度変えた。9月のシルバーウィークに彼女と行くことを予定していた、熱海への温泉旅行もイタリア旅行に変えなくては。そのためには少しお金が足りないが、家にある、あらゆるものを売ってでも行かなくてはならない。
 こうしている場合ではない。映画館を出て、まず僕は3ヶ月前から付き合っている夕夏の家へと飛んでいった。今。今なんだ。今、この感動を伝えないで、いつ伝えるんだ。
 夕夏がひとり暮らしをしているアパートに着くと、夕夏はまだ寝ていた。僕はとにかく早く観たくて、朝一番の回を選んでいたのだ。
「何? こんな朝早くに。まだ寝てたよ」眠い目をこすって出てきた夕夏を、僕はパジャマのまま引きずり出し、「今、夕夏が観なくてはならないものがあるんだ」と言って、無理矢理電車に乗せて映画館へと舞い戻った。
 映画が始まる前、僕は何度も何度もこの映画の素晴らしさを語った。もちろんネタバレはしないように。9月の熱海への温泉旅行もキャンセルすべきだということも伝えた。温泉よりも、絶対にイタリアだと。夕夏は眠そうな顔をしながら聞いてくれた。
 そして、いよいよ映画が始まる時がやってきた。もう一度、あの感動を僕の胸に!

 エンドロールが終わったら、僕は幽体離脱したかのように脱力していた。1回目よりも2回目のほうがすごい。なんという映画だ。言葉が出ずに、ほぼ失神しかけていた。いや、いかん。ここで失神してはダメだ。夕夏と感動を分かち合わなくては。
「ふう、ふう」まずは深呼吸。「ねえ、胸の辺りが感動でズキズキするでしょ。この瞬間、自分の人生が変わったはずだよ。もう夕夏はさっきまでの夕夏じゃないんだ」
 すると、夕夏は意外にも申し訳なさそうな顔をした。きっと、僕の表現が陳腐で、夕夏の感動をとらえきれていないんだ。
「ごめん。生まれ変わったはありがちな表現だったね。新しい宇宙が今、君の胸の中に生まれたとかのほうがよかったかな。まあ、どちらにせよ、この感動は言葉にできないと思うから、何も言わなくていいよ。こうして座ったまま、深呼吸しながら映画の余韻に浸ろうじゃないか」
「全然おもしろくなかったよ」
 僕は一瞬、夕夏が何を言ったのかわからず、そのまま聞き流した。
「聞いてる? 全然おもしろくなかった」
「え?」
「別れよっか」
「え? え?」
「ごめんね。私、あなたと性格合わないと思ったけど、これで確信したわ。せっかくよく寝てたのに、最悪の日曜日だわ。バイバイ」
「ちょ、ちょっと待って。2回観たら、さらに深い感動が…」
「何回観たって同じだよ」
 夕夏はそう言って、席を立ってしまった。
 これはどういうことなのだろう。僕は冷静に考えた。何かの間違いに違いない。たまたま寝起きの時に見てしまって、内容がスムーズに頭に入らなかったのだ。そのことを追いかけ、説明する必要があるかと思ったが、僕は目の前の誘惑に抗えなかった。次の回が再び始まろうとしているのだ。また夕夏を無理矢理連れてくればいい。そう考えながら僕は、再び涙で膝を濡らす。