その程度

 幼馴染の深沢くんが僕の“勇気”を盗んでから、もう2ヶ月になる。あれは恵比寿の居酒屋だった。僕が会社の飲み会で会計をしていた時、お金が足りなくてアタフタしていたから、ちょっとした油断があったのだろう。深沢くんは突然現れたかと思ったら、久しぶりと言う暇もなく、僕からスルリと勇気を盗んでいった。
 今日、僕は深沢くんの家まで、勇気を返しにもらいに行くことにした。深沢くんは中学を卒業して引っ越したので、新しい家に行くのは初めてだ。東武東上線で1時間15分、電車賃は780円。ちょっとした出費だ。このお金を請求しようかどうか考えていたら、目的の駅まで眠ってしまった。僕は毎日疲れているのだ。
 深沢くんの家は駅から徒歩15分のアパートだった。こんな遠くに住んで不便じゃないのだろうか。呼び鈴を押すと、深沢くんはすぐに出てきた。Tシャツと短パンというラフな格好だった。
「おお。小宮山か」
「こないだは久しぶり。6年ぶりくらいだったね」
「ああ」
「でさ、あのとき盗んだ、僕の勇気を返してくれないかな」僕は単刀直入に切り出した。
「ダメだ」
「なんでー。返してよ。お願いだよ」
「ダメだ」深沢はどうしても首を縦に振ろうとしない。
「わかったよ」僕はそこまで粘る気にもならず、帰ることにした。ここで無駄なエネルギーを消耗するのも避けたいからだ。タフな交渉事は仕事だけで十分だ。「出直してくる」
「待てよ」
「は?」まだ僕から何か盗むつもりなのだろうか。今度は何だろう。食欲? 物欲? 僕は隙を見せないようにと身構えた。
「なんで2ヶ月もの間、返してもらいにこなかったんだよ」深沢くんは怒りとも悲しみともつかない、苦々しい顔で言った。
「え? だって。仕事が忙しかったし。今度のプロジェクトは俺がいないと回らないんだ。上司からも頼りにしてるって言われた。そんな状況で行けるわけないだろ」
「勇気がなくて、不便じゃなかったのかよ」
「うーん。別に不便ではないかな。仕事では全然使う機会もないし。なくてもなんとかなるからさ」
「その程度かよ」
「え?」
「その程度かって聞いてるんだ。おまえが勇気を返してもらいたいのは」
「まあ、その程度と言えばその程度かもしれないけどさ」
 僕がこう答えると、深沢くんは突然泣き出した。「なんでだよ。昔は一緒に川でウツボ獲ったりしたじゃないかよ」
 なぜ深沢くんが、僕の勇気のことでこんなに泣くのか理解できなかった。もしこんな状況を周りの人に見られたら変に思われるかもしれない。深沢くんは泣き止まず、とりあえずしばらくは返してくれそうにないので、明日の仕事に備えて帰ることにした。