奥田民生になりたい子供たち

 これはどうしたことだろうか。
 栗原は集められたアンケート用紙を読みながら、頭を悩ませていた。放課後の職員室には、もう誰もいない。他の先生方が帰った後にアンケートをゆっくり読もうと思っていた。
 教師という職業に、栗原は飽き飽きしていた。毎年毎年同じことの繰り返し。しかも年々小さな諸問題はややこしさを増し、苦労が減ることなどない。そんな中、こうして年に一回とるアンケートを読むのが、栗原の唯一の楽しみとなっていた。
 栗原は大学を卒業して教師になって以来、毎年生徒たちに匿名でアンケートをさせていた。「君は将来、何になりたいのか。どんな大きな夢でもいいから書いてくれ」というお題だ。名前を書かせると、子供たちは変に教師の目を意識してしまう。それが、匿名となると、自由に思ったことを書く。そんな彼らの本心に触れることができるのが栗原にはうれしかった。短い期間の付き合いではあるが、自分が彼らの成長に関わるわけだから、それくらい知る権利があるじゃないか。そう思っていた。
 栗原が担任を受け持つのは、小金井第一小学校の4年2組だ。昨年まで担当していたのが6年生だから、4年生とは初めて接することになる。昨年のアンケートの結果としては、「サラリーマン」「公務員」が圧倒的に多かった。中学受験でヒイヒイ言っている6年生だけに、現実的になるのは仕方ないのかもしれないが、栗原は少し残念に思った。小学生にはもっと無邪気に大きな夢を語ってもらいたい。
 今年は4年生なだけに、昨年よりかは夢らしい夢を語ってくれる子供が多いはずだ。まあ、今年は昨年よりも不景気が深刻だから、多少は公務員が増えていても覚悟しよう。そんな思いで、期待を呑み込みながら結果を見た。
 すると、そこには栗原が予想もしないことが書かれていた。 
 クラスの42人全員が、将来の夢は?の問いに「奥田民生」と書いていたのだ。栗原は最初、目を疑った。文字の形から言って、「民生委員」とか「模範人民」とか「熱血先生」とか、そういう職業名のようなものに見えたが、それらは何度見ても、あの「奥田民生」だった。


 翌日、栗原は1時間目の算数の授業をつぶして、緊急の学活を開いた。子供たちは、自分たちが怒られるのではないかと思い、緊張しているのが伝わってくる。
「先生がこうしてみんなを集めたのは、昨日のアンケートが原因だ。昨日のアンケートで、全員が何と答えたか知ってるか。奥田民生だ。僕は毎年同じアンケートをやっているが、その中では、サラリーマンとか公務員と書く子が多いのが普通だ。もしくは、ナースとか歌手とかプロ野球選手とか、そういう職業名を書くものだ。なのに、今回はなぜか個人名だ。これが何を意味するのか僕は知りたい」
 一拍おいて栗原は語気を荒げる。「これは何かのイタズラなのか? 誰かが申し合わせて、僕を混乱させようとしたのか?」
 教室内は静まりかえっていた。「だとしたら、僕はショックだ。夢を語ることに、そんな悪知恵を使ってほしくない。そんなことをしたら、夢の神様のバチが当たる」
 子供たちからは何の意見も出てこず、栗原は続けた。「よし、わかった。じゃあ、100歩譲って、全員が奥田民生になりたがってるとしよう。でも、そもそも君たちの世代は奥田民生など知らないはずじゃないか。奥田民生は僕たちの世代の人間だ。僕が生まれたのは1976年。中学の時にはユニコーンを聴いて育った。はっきり言って大ファンだ。今でも追いかけているし、ユニコーンの再結成ライブも行った。カラオケに行ったら民生の書いた曲しか歌わない。自分の声のキーに合っているから歌いやすいんだ」栗原は自分のことを語りすぎているのに気付き、話を戻した。「まあ俺の話はいいさ。とにかく、誰だ。誰がきっかけになって、奥田民生を広めたんだ」
 すると、小さな声で「先生」と聞こえた。クラスで一番勉強ができて、真面目さと清楚さの日本選手権を行ったら間違いなく1位になるような香取桃香だ。彼女は言った。「私です」
「え? 香取、おまえが?」栗原は耳を疑った。
「そうです」香取は小さい声で話し続ける。「私は生まれつき真面目で小心者で、学校の勉強や人間関係で日々いっぱいいっぱいでした。私たちの世代は将来どうなるかわからないし、このまま勉強を続けていても、いいことあるのかな?って不安に苦しんでいました。そんな時、私の父の部屋から、なんか落ち着く歌声が聞こえてきたんです。それが奥田民生でした。私は父が留守の時にこっそり部屋に忍び込み、CDを聴きまくりました。そうすると、すごく気持ちが楽になったんです。こんな風にリラックスして生きていいんだって。人生って楽しいこともいっぱいあるんだって。それで、他の人にも聴いてもらいたくてCDを焼いたら、みんな気に入ってくれて」
「そうだよ、先生」学校で一番の問題児と言われていた山下卓が立ち上がった。彼は4年生とは思えないほどガタイがよくて、ひとつひとつの動きに迫力がある。「俺だって、好きでケンカばかりしていたわけじゃないよ。何だかわからないけど、いつも何かに不満があったんだ。それが、香取に貸してもらった奥田民生のCDを聴くことで救われた。自分に不満があるからって、周りに当たり散らすのはバカバカしいなあって思ったんだ」確かに、山下はここ数ヶ月ピタリとケンカをしなくなっていた。
「私だって」「俺だって」教室中から、香取と山下に賛同する声が次々とあがった。
「ちょっと待て。わかった。君たちが民生の音楽に魅せられたのはわかった。だからと言って、将来の夢が奥田民生になるのか? 全員が全員そう思っているなんて、さすがにありえないだろ。これは誰かが仕掛けたんだよな」そう栗原が聞くと、全員が首を振った。
「それはたまたまだと思います」香取が話す。「私は本当に奥田民生になりたい!って思ってたけど、みんなが同じことを思っているだなんて」
 栗原は呆気にとられていた。奥田民生の影響力は彼の予想を遥かに超えていた。「OK、わかった。でも、言っておくが、生物学的に違う人間になることはできないんだ。君たちは君たちでしかない。いくら奥田民生になりたいと言ったって、あくまで、奥田民生のように生きることしかできないぞ」そう不安そうに言うと、子供たちは笑った。「当たり前じゃないか、先生。ただ、みんなが奥田民生のように生きたいって思っただけだよ」山下が言う。
 なんだ、そうか。それを聞いて栗原は安心した。なんて楽しみなクラスなんだ。
「よしわかった。じゃあ、君たちのその奥田民生愛に免じて、今日は授業をせずに、俺の奥田民生DVDコレクションをじっくりと見せてやる」
 生徒たちからは歓声があがった。栗原は電気を消して、スクリーンを下ろし、教卓の引き出しから取り出したDVDを再生する。栗原には、生徒たちの目が輝いているのが見えた。民生の粘っこい歌声が教室にこだました。