OLよ、素直に汁を出せ!

 私の名前はOL。いや、違った。私にもちゃんと名前がある。とは言っても、もはや私が私であることを誰にも求められていないから、OLで十分かもしれない。戸籍上の名前は、花田房子という。子供の頃はフサちゃんと呼ばれていたが、今ではそう呼んでくれるような友達はいない。何年もの間、会社と家を往復するだけの毎日。同僚にも、取引先にも、誰も仲のいい人はいない。私のフルネームを知っている人など、もちろん皆無だ。飲みに行く機会もないし、習い事もやっていない。新潟の実家にも3年ほど帰っていないし、両親との電話は新年の挨拶だけだ。
 仕事の内容は人に話すほどのものではない。むしろ語ることなど何もない。誰でもできる仕事を、ひたすら右から左へと短時間で効率的にこなす。ボーナスが来るまで頑張ろう、そしたら辞めようと自分を励まし、ボーナスが来ると次のボーナスを目指す。そうやって我慢しながら、ここまでやってこれた。しかし、心と体は限界を迎えていたのだろう。ある夜、私は家への帰り道で倒れてしまった。
 胸が息苦しくなって道路に突っ伏す。誰か助けて。でもこんな時に電話できる友達は私にはいない。親に電話するのは何となく恥ずかしい。そんな思いでいると、後ろから知らない男に声をかけられた。誰だ。暴漢か。盛りのついた少年か。弱っている女につけこんで手を出そうという気か。警戒して肩に力を入れていると、男はこう言った。「あなた、汁が溜まってますね」
「は?」何を言ってるんだろう、この人は。気味が悪いから逃げようと思っていると、「ここに乗りなさい」と自転車の後ろに座らされた。逃げたくても、もう体の中に余力は残っていなかった。もうどうにでもなれだ。気を失うように男の背中にもたれて眠ってしまった。


 目が覚めると、そこはきらびやかに装飾された店の中だった。真っ赤な絨毯に、ガラス張りの店内、仰々しいシャングリラ。私こういう立派な店には来ない主義なのに、これは夢なの?
「目が覚めましたか」思い出した。さっき私を連れ去った自転車の男が、タキシードを着て立っている。「約束どおり、汁を出させてあげましょう」
「ちょっと。何を言っているんですか。汁とか言って、いやらしい意味じゃないですよね。あはは」私は自分の緊張を和らげるために、精一杯のギャグを言ったが、男は両方の口角を少しあげただけだった。
「すぐに終わりますから、大丈夫です」そう言って男が私の肩にストローのようなものを刺した。動きが素早すぎて抵抗できない。「何するんですか」
 すると、ストローから、見たこともないような醜い色の汁が、ジョボジョボと音を立てながら大量に流れ出てきた。私は驚いて尋ねる。「すごい。何なんですか。これは」
 男は答える。「汁です。あなたの汁です」
「汁? 胆汁とか胃液とか、そういうのですか? あなたは医者なの?」
「汁は汁です。私たちは汁を吸い取る業者です」
 醜い色の汁はドラム缶のような容器にすぐに満タンになった。そして私はあることに気付いた。体が羽根のように軽く、心がオレンジ色に塗られたかのように晴れ晴れとする。「何これ? すっごい楽しい。心がウキウキするの。歌いたい気分よ」私は大好きな椎名林檎の『正しい街』と東京事変の『キラーチューン』を立て続けに歌った。
「ご機嫌なようで、よかったです」男はふっと笑って説明した。
「自分じゃないみたいだわ。あなたが吸ってくれた汁のお陰なのね。ありがとう」
「礼には及びませんよ。代金さえ払っていただければ」
「え? 何、お金とるの。人の汁を勝手に抜いておいて」
「でも、あなたは、汁を抜かなければ、あそこで起き上がることはなかった」
「それもそうね」私は渋々と納得した。「うまい商売だわ。で、いくら?」
「25万円です」
「え? 私の給料と同じくらいじゃない。そんなの払えないわよ」
「では、お支払いいただけないのであれば、この汁をあなたの体内に戻します」男は汁の詰まったドラム缶を差し出した。
「わかったわよ」私は了承するしかなかった。「カード払いでいい?」と聞くと「結構ですよ」と男は答えた。


 少し高価な買い物になってしまった。しかし、私の心は放っておいても晴れやかで、男の店を出てからスキップせざる得なかった。久しぶりに友達に電話をしてみよう。東京には中学が一緒だった宏美が来ているはずだ。電話番号は昔聞いててアドレス帳に入っていたから、電話をしてみる。宏美は戸惑いと喜びの入り混じった声で電話に出た。「やだ! フサちゃん、久しぶり!」フサちゃんと呼ばれたのは何年前のことだろう。


 しかし、そんな暮らしもすぐに以前と同じに戻った。1ヵ月働くと、疲れやストレスはピークに達する。私は汁が溜まるたびに、以前訪れた汁屋を訪ねていった。汁屋は隣りの駅の南浦和にあった。初めて訪れた時に、店のチラシをもらっていたのだ。
「いらっしゃい。来ると思ってましたよ」2回目に行った時に、男はそう言って出迎えた。
 汁をとってもらうと、いとも簡単に爽快な気分になった。そのたびに宏美に電話をかける。しかし、「フサちゃん、今度遊ぼうよ」「いいよいいよ」という話になるのだが、結局仕事が忙しくなってしまい遊べない。また電話をかけて「遊ぼう」と言っても、「フサちゃん、忙しいから口ばっかりだよね」と言われて相手にしてもらえなくなった。
 私は悩んでいた。働いて、汁を抜いて。働いて、また汁を抜く。いったい何をやっているんだろう。私は男に相談してみた。「ねえ、この汁代、少しディスカウントしてくれないかしら」
「ダメです。汁を吸うのにはコストがかかります。我々は薄利多売ですから」男は当然取り合ってくれない。
「わかったわ。でもね、私の生活はいっぱいいっぱいなのよ。汁を吸うことのためだけに働いているの。矛盾してるでしょ」
「ちょっと疑問なのですが」男は尋ねた。「仕事を辞めればいいのではないですか」
 ガーンと頭がひっぱたかれた思いがした。そうか。仕事をしなければ汁が溜まらない。汁が溜まらなければ、金を使うことはない。
「ありがとう!」私は男に礼を言って、店を飛び出た。翌日、退職届を提出した。


 この先、私がどうすべきなのかはわからないが、自分のことをフサちゃんと呼んでくれる宏美と毎日遊び呆けている。「これでいいのかな?」ある日、宏美に尋ねると、「わかりませーん」と笑われた。確かにどちらかがいいのかわからない。ただ、汁が溜まらない体はひたすら軽い。それは確かだった。私はまた椎名林檎を歌う。宏美が一緒にサビを合唱した。