夢遊病でキムチ

 ケネスが目を覚ますと、そこはバーだった。ニンニクの強烈な匂いに耐えられなくなったケネスは部屋の隅にあったティッシュを鼻に詰める。バーには誰もいなく、店内も暗い。外が明るいのを見ると、きっと夜には営業するに違いない。どうしてこの場所にいるのかはわからないが、長居は無用だ。ケネスは外に出て、アパートに戻ることにした。
 外に出ると、そこにあるのは当然、見慣れない景色だった。ケネスが日本に来てから、まだほんの1週間しか経っていない。チトセカラスヤマ駅から自分のアパートまでの道もまだあやふやだ。しかし、今ケネスがいる場所は特に不親切だった。英語の表記が一切ないのだ。ここは日本の中でも、かなりの田舎に違いないとケネスは考えた。
 ケネスは自らの現在地を把握するために、通行人に道を聞いてみることにした。ケネスは日本語の読み書きは苦手だったが、簡単な旅行会話だったら少しできた。
「すいません。ここはどこですか?」ケネスはメガネをかけた青年に尋ねる。しかし、青年は不思議そうな顔でケネスを見たまま、何も言わなかった。自分の発音が悪かったのだろうか。もう一度ケネスは言う。「ここはどこですか?」
 青年は舌打ちをして首を振って行ってしまった。きっと自分のマナーに無作法なところがあったに違いない。日本のマナーは難しい。お辞儀が足りなかったのか、初対面では笑顔を見せるべきではなかったのか。
 しかし、結果は何度やっても同じだった。通る人通る人にケネスは片っ端から声をかけて、同じように質問をしたが、誰一人としてケネスの知りたいことに答えてくれる人はいなかった。
 気がつくと、日が暮れてきた。不安になったケネスは公衆電話を探した。大学のクラスメートから、もし迷ったらここに電話をかけるようにと、テレフォンカードと電話番号の書いた紙をもらっていた。ケネスは公衆電話に行き、テレフォンカードを差し込もうとした。しかし、いくら頑張ってみても、テレフォンカードは入らない。ポケットにあった小銭も大きさが違い、結局電話をかけることができなかった。
 ケネスの目からは涙が溢れてきた。どうして自分に降りかかる出来事は、こういうわけのわからないことばかりなのだろう。しかし、それも仕方がなかった。ケネスは昔から夢遊病の症状があり、睡眠中に数々の失敗をおかした。ある時は学校の体育倉庫で目覚めたこともあったし、ある時は公園でホームレスの男性と眠っていたこともあった。今回もきっと、同じように夢遊病の症状が出て、どこか知らない場所まで歩いてしまったに違いない。日本で症状が出ると大変だからと言うので、しっかり薬は飲んでいたのに。昨日はクラスメートが歓迎会をやってくれると言い、酒と混ざるとまずいから、薬は飲まなかった。それでこの有様だ。
 しかもケネスは空腹だった。このままだと飢えて倒れてしまう。目の前に食堂があったので、入ることにした。相変わらず日本語のメニューは読めなかったが、隣りの人間が食べているものを指差した。ウエイトレスの少女はうなずいて厨房へ戻り、小さな皿の料理を何品か運んできた。
 これは頼んでない。そうジェスチャーで説明しようとすると、少女は「サービス」と言った。ケネスは納得し、小皿をいただくことにした。黒い海草と白い野菜と赤い野菜のようなものがある。まずは自分が応援するマンチェスターユナイテッドのユニフォームカラーの赤い野菜から箸をつけることにした。
 その味は、ケネスが思っている日本料理とは少し違っていた。スパイシーでホットで刺激的だ。日本の料理と言えば、魚をベースに薄い味付けをするものだと思っていた。ケネスは日本料理と呼ばれるもののほとんどが苦手で、来日して以来ハンバーガーとカレーしか食べていなかったが、この手の辛い料理だったら好みだ。ケネスは少女に頼み、赤い野菜をもう一杯いただくことにした。その後に少女が運んできた、隣りの席の人間と同じ料理も美味かった。少女はサンゲタンと言った。ケネスには「Sun Get Tongue」と聞こえた。太陽が舌を抜く?
 結局、赤い野菜は6回もおかわりをし、満足したケネスは帰ることにした。帰ると言ってもどこへ? 持ち金が数千円しかないので、ここの勘定が支払えない可能性があるのだ。長居は無用だった。ケネスが少女に値段を聞くと、2300と書いた伝票を渡され、3000円を渡す。そして、店を出ようと思うと、少女が騒ぎ出した。ケネスが驚く間もなく、他の客がケネスを羽交い絞めにした。少女がどこかへ電話をかけ、あっというまに警察がやってきた。ケネスは食い逃げの容疑で警察署へと連れていかれた。
 
 警察署には英語が喋れる警察官がいた。名前をイムと言った。イムはケネスを取り調べ室に連れていき、流暢な英語で尋ねた。
「なんで、韓国ウォンを持っていなかったんだ? おまえのやったことは食い逃げではない。ただ、日本円を見たことがない少女が騒いだだけだ」
「韓国ウォン? 日本には、韓国ウォンを使う地域があるのか?」
 ケネスがそう言うと、イムは笑った。「何を言っているんだ。大丈夫か? ここは韓国だ。日本は遠い遠い海の向こうだ」
「まさか…」ケネスはある仮説を立てた。昨夜クラスメートとの飲み会を終えて帰宅したケネスは、家に帰るやいなや眠りに落ちた。そして、夢遊病の症状が現れ、早朝の始発電車に乗って成田空港まで行き、韓国行きのチケットを買って、飛行機に乗った。それからどう移動したかは不明だが、どうにかしてあそこのバーに忍び込んで寝ていたのだろう。
 ケネスが自分の病気について話すと、イムは気の毒そうな顔をした。「かわいそうに。呪われた病気を持っているんだな。どこかに帰りの航空券があるんじゃないか? 探してみたらどうだ」
 イムの言葉を聞いて、ケネスが体中を探すと、上着の胸ポケットに、確かに帰りの航空券が入っていた。ケネスは笑い、イムに礼を言う。イムは「次に来る時は、ちゃんとウォンに両替してこいよ」と言った。
 ケネスは取調室を出る時に、イムに尋ねた。「なあ、俺が食堂で食べた、あの赤い野菜は何と言うんだ?」
 イムは、何を言っているんだ、おまえは?という表情で答えた。「赤い野菜? 何のことだ。きっとトマトか人参だろ」
「トマトか人参? それにしては辛かったが。そうか、アジアのそれとイギリスのものは味が違うんだな」
 ケネスは礼を言い、取調室を出た。日本に帰ったら、トマトと人参をたらふく食べることにしよう。そう考えたら、口の中にあのジューシーな辛さが蘇り、腹がグーグーと鳴った。