便を放棄した僕

 外は雨が降っており、バイトを休むことにした。こんな日には、働かずに、家で面白い映画を観るに限る。傘を差して家から50mほどのレンタルビデオ屋に行き、『便を放棄した僕』という映画を借りてきた。世界には不思議なタイトルの映画があるものだ。あらすじを読まなくても、感覚の鋭敏さに誇りを持っている自分のイマジネーションがビンビンと刺激される。テクノロジーによって利便化が進む社会へのアンチテーゼ。はたまた人類の原始回帰の促進といったところだろうか。自分の直感がこの映画は“当たり”だと言っている。今日がいい日になるような予感がした。
 部屋に戻り、コンビニで買った板チョコをバリバリ噛み砕きながら、再生ボタンを押す。舞台はロシア。主人公はモロチョフという大学生で、顔は総理大臣になった鳩山由紀夫氏によく似ていた。お陰でニュースの延長を観ているような気分にさせられる。
 モロチョフは極度の潔癖症を持っており、他人と触れ合うことができなかった。もちろん触れ合えないとなると恋人もできない。性格も人の欠点を受け入れられるほど寛容ではなかったので、誰も友達はいなかった。
 そんなモロチョフは自分自身に対してもストイックなほどに潔癖症だった。髪の毛がふぞろいに伸びていると、均等になるように何度も何度も切り揃えた。ヒゲ剃りも1日30回ほど行い、迂闊にオナラでもしようものなら、大量の消臭剤を部屋中に噴霧した。
 淡々としたトーンで進んでいた物語は、中盤に入ると大きく動き出す。モロチョフはある日突然、トイレに入ることが出来なくなった。自分の便を見ることに耐えられないのだ。モロチョフはトイレのドアの前を通るだけで、息切れがするようになってしまう。
 しかし、人間が人間である以上、不要物は体の外に出さなくてはならない。モロチョフは生命を維持するためにも、ある決断を下した。食べたり飲んだりしたものは、上の口から全部出せばよい。嘔吐と便は何が違うのだろうと疑問に思ったが、その辺は監督のこだわりなのだろう。後半は前半の淡々としたトーンとは一転して、ひたすらどぎつい嘔吐シーンが続く。バックに流れる音楽は、なぜかマイケル・ジャクソンの『ブラック・オア・ホワイト』だった。
 観る者を拷問するような展開が続き、さすがにうんざりしてストップしようかと思っていると、突然カラフルなデザインのサイトのTOP画面が映る。これは恋人を募集するSNSサイトで、モロチョフが自分はトイレに行かないほどの綺麗好きだと書いたところ、応募が殺到した。モロチョフは喜びのあまり、シャンパンを開ける。そんな希望に満ちたラストシーンだった。
 しかし、応募してきた女性とモロチョフが会っても、恋愛に発展することはまずないだろう。便はなくとも、その何倍もの嘔吐があると知ったら、彼女たちは驚いて逃げていくはずだ。その辺りがあえて描かれていないのも、かえって残酷な気がした。
 観終わった後は、しばらく考え込んでしまった。なぜこの監督はこんなわけのわからない映画を撮ろうと思ったのだろう。誰がこんなアングラ映画の日本盤を出そうと思ったのだろう。そして、なぜ自分はこんな映画に惹かれて借りてしまったのだろう。
 1週間レンタルにしていたが、今日のうちに返さねばならない。こんなに変なビデオを家に置いておくと、風水上よくないことがありそうだ。とんだ日になってしまったと、バイトを休んだことを後悔した。