バスのフリをしたタクシー

 部長と飲むと、いつもこうだ。春日はすすめられるがままにワインとハイボールとホッピーを立て続けに飲み、千鳥足で三鷹行きの終電に乗り込んだ。この時間はもう、国分寺まで行く電車はない。三鷹で一度降りて、タクシーに乗るしかないのだ。春日は毎度毎度の出費を呪った。部長は飲み代だけでなく、タクシー代も出してくれればいいのに。このままだと、ただでさえ安い給料がタクシー代で消えちまう。
 この夜は特に酔っ払っていたので、三鷹駅で降りた後、トイレでしばらく休んでからタクシー乗り場へと向かった。今日はタクシーの回転がいいのか、いつも30人くらい並んでいる行列が、5人しかいなかった。
その後も立て続けにタクシーが到着したため、前の5人はすぐにいなくなった。しかし、春日の順番になると、タクシーはなかなか来ない。春日は立ちながら寝てしまいそうになるのを、こらえながら待っていた。
 遠くのほうからエンジン音が聞こえてきた。「やっと来たよ」春日は独り言を言いながら目を開ける。すると、そこにはバスが停まっていた。バスは後ろのドアを開けた。乗れ、ということだろうか。春日は自分が酔っ払って、タクシーがバスに見えているのかと思い、混乱した。しかし、外は寒い。「ええいままよ」とつぶやきながら、バスに乗り込んだ。
 1人で乗るバスは広かった。春日は一番後ろのはじっこの席に座った。運転手が振り返り、大声で言った。「お客さん、どこまでー?」
「あ、国分寺市役所のほうまで」
「わかりましたー」運転手は再び大声で言って、バスは発進した。よく見ると、運転手の服装はバスの運転手ではなく、紛れもなくタクシーの制服だった。
 春日は不安になり、自分の酔いが次第に覚めてくるのを感じた。これはどう見てもバスじゃないか。キョロキョロと車内を見渡していると、その視線に気付いたのか、運転手が言った。武蔵境をすぎた辺りだった。
「お客さん、変だと思うでしょ。実はこれ、バスのフリをしたタクシーなんですよ」
 春日が唖然として黙っていると、運転手はもう一回言った。
「聞こえませんでしたか。バスのフリをしたタクシーなんですよ」
 春日はどう答えていいか迷っていた。
 いやー、すっかり騙されちゃいましたよ。こんな深夜にバスが来るなんておかしいと思っていたんだ。運転手さんも人が悪いなあ。どれもしっくり来なかった。そもそもフリって何なんだ? どうしてフリをする必要があるんだ?
 下手に答えたら怒られそうな気がしたので、春日は寝たフリをした。フリにはフリで対抗だ。そんなくだらないことを考えていると、ウィーウォウ、ウィーウォウと夜中には聞きたくない音が遠くから聞こえてきた。パトカーの音だ。どうやらこっちに近づいてきているようだ。
 どこかで事件でもあったのだろうか。そんな呑気なことを考えていると、運転手が「やべ!」とつぶやいた。「やべ!」って何だ。ということは、このバスが追っかけられているのか。春日は目を開けて、転びそうになるのを必死に踏ん張りながら運転席へと歩いて行った。
「どうしたんですか。何か問題があったんですか」
春日が聞くと、運転手の口調が乱暴になった。
「畜生! 警察に見つかっちまったよ。俺は昔からよ、バスの運転手になりたかったんだ。でも、試験に受からなかった。それで、仕方なくタクシーの運転手を40年やってきたんだ。兄ちゃん、わかるか? やりたくない仕事を40年だぜ。今日がその最後の日だった。会社の連中がお別れ会をしてくれて、帰る時によ、バスの駐車場が見えたんだ。俺は思った。これは神様のプレゼントだ!ってな。俺は窓を割り、配線をいじってエンジンをかけた。40年もタクシーに乗ってれば車のことなんて何でもわかるんだ。楽勝だ。でも、俺はバスの大型免許は持ってねえ。そこで、いいアイデアが思いついたんだよ。バスのフリをしたタクシーなら問題ねえんじゃねえかって。これはあくまでバスじゃねえ。何度も言うが、バスのフリをしたタクシーだ。だろ?」
 春日は黙って頷いた。
「だが、あの警察の剣幕を見ていると、そうはうまく行かねえみたいだな。兄ちゃん、ごめんな。国分寺市役所のほうまでは行けねえよ。せっかく俺が45年鍛えた、ドライビングテクを見せてやろうと思ったのにな」運転手は一気に喋った。
 春日は頭の隅にかすかに残る酔いを振り切りながら、言った。「あなたのドライビングテク、見せてください。国分寺の僕の家まで、このバスのフリをしたタクシーで連れて行ってください。警察に捕まりそうになったら、僕は言いますよ。僕はバスに乗ったつもりだったって。そしたら、あなたは僕を騙したことにならない。僕が勝手に騙されたんだ!」
 運転手は驚いた顔をした。そして言った。「本気か、兄ちゃん。もしかしたらおまえも一緒に詐欺共犯罪で逮捕されることになるかもしれねえよ」
「僕はかまいませんよ。あんな部長と一緒に働くのはもうゴメンだ。会社だってクビになったってかまいませんから」
「ようし、よく言った。俺のドライビングテク、確かに見せてやるぜ」
 運転手がアクセルを踏み直した。パトカーの音が近づいてくる。春日は会社をクビになった後のことを想像した。俺には何の技術もないが、食べていけるのか?
 しかし、パトカーはバスを追い越して行ってしまった。「そこの原チャリの2人乗り、待ちなさい! 止まりなさい!」とマイクで言う声が聞こえた。警察が追っていたのはこの車じゃなかったのだ。
 運転手は深い息を吐き、春日はへたへたと床に座り込んだ。
「なんでい。焦らせやがるぜ」運転手は言った。
「あ!」春日は、あることに気付いた。「運転手さんは、あの警察をも騙すことができたんですよ。警察はこの車を本当のバスだと思ったんだ。あなたの勝ちだ!」
「そうか、そうだよな!」運転手はくしゃくしゃの笑顔を浮かべて春日とハイタッチを交わし、その後、春日の家までと送って行ってくれた。


「着いたよ」
「ありがとうございます。いくらですか?」
「金はいらねえよ。だって、この車、メーターもついてねえだろ。最後の俺の夢に付き合ってくれてありがとうな」
「いえいえ、こちらも楽しかったですよ」
「俺も満足したからさ。この後、盗んだバスの車庫に返しに行くことにするよ」
「そうですか。帰り道、捕まらないように気をつけてくださいね」
「バカヤロー。そんなの余裕に決まってるだろ。おめえのことも警察のことも騙した俺だ。もう誰にも正体は明かされねえ。普通のバスだと思わせて走ってやるよ」
 そう言って、運転手は車のエンジンを吹かし、窓から手をあげて帰って行った。その車の後ろ姿はどう見てもバスにしか見えなかった。