憧れの朦朧部員たち

 待ちに待った大学1年生の暮らしが始まった。久保田善太郎は、どこのサークルにするか迷っていた。女の子が多い手芸サークルか? 自分の趣味に一番近いアガサ・クリスティ研究会か? それとも少しは身体を動かしたほうがいいから、23区散歩の会か?
 ひとつに決めてしまうのはもったいないから、いろいろ顔を出すのがいいかもしれない。善太郎は、新歓ブースを出しているサークルを隈なく回った。
 午前中じっくりと時間をかけて回って、だいぶ疲れてきた頃、善太郎は学食の隅っこで奇妙な立て看板を出しているサークルを見つけた。そこには「朦朧としている人、集まれ。朦朧部」と朦朧とした文字で書かれていた。右利きの人が左足で書いたような、授業中に居眠り寸前の時のノートのような文字。例えるならダイイング・メッセージに近いかもしれない。
 善太郎はそのサークルが妙に気になり、看板へと近づいていった。そこには、ぐったりとした表情の上級生が1人だけいた。
「すいません」
「うえああ」善太郎が驚くような朦朧ぶりだった。この人は危ない薬でもやっているのだろうか。
「あの、このサークルは何をやるところですか」
 善太郎が聞くと、上級生は一瞬、何か言おうかという表情を見せたが、そのまま眠ってしまった。上級生の横にはビラが重ねて置いてあったので、善太郎は仕方なくそれを持って帰った。ビラには「津田沼駅前のさくら水産で、本日18時から歓迎コンパ」と書いてあった。コンパの「ンパ」の文字は日本語と判別できないような朦朧っぷりだった。
 善太郎の目は輝いた。善太郎は好奇心が旺盛なことでは自信があった。小学生の卒業文章で、クラスの「好奇心旺盛な人」の5位に入ったほどだ。よし、今日の夜は他のサークルのコンパを蹴って、ここに行くぞ。善太郎は一度家に帰って、夜の街に合った格好に着替えて、津田沼駅へと向かった。


 さくら水産には、5人の部員が待っていた。昼間に話した上級生もいた。みんな机に突っ伏して寝ている。この人たちは眠り病なのだろうか。
「すいません」善太郎が声をかけると、ひとりの部員が顔を上げた。
「うえああ」焦点の合わない目を向けて、言う。「いらっしゃい。新入生?」
「はい」善太郎が返事をすると、彼は他の部員を叩いて起こした。
「おい、起、き、ろ。起きろってば」
 そして、5人が起き上がり、善太郎を見た。男が3人、女が2人だった。
 まず最初に女が善太郎に質問した。「君はいつも朦朧としているの?」
「たまにですが、してることもあります。眠い日の朝に宅急便が来た時とか、バットを額に当ててグルグルと回転した後とか」
「いいねえ。それ、すっごく朦朧とするね」男が言う。
「他には?」もう1人の女が聞く。
「え? 他は…ないですね。すいません。その程度で」と善太郎は亜謝った。
「あまり朦朧としないタイプなんだね」女が呟いた。
 善太郎は嫌われたかな?と不安に思ったが、昼間の上級生が小さな声で言った。「じゃあ、入部決定」
「え? もう決定なんですか。まだ活動内容とかも聞いてないんですけど」
「朦朧とするだけだよ。それだけ」と上級生が言う。どうやらこの人は部長のようだ。
「みなさんは、なんでそんなにいつも朦朧としてられるんですか」善太郎は核心を突いた。すると、そこにいた河原という女は、体調が思わしくないため、ずっと薬を飲み続けているから朦朧としているだけだと言った。星野という女は、現実逃避ばかりしていたら頭が曇ってしまったと言った。
 そして七沢と名乗る部長は、恋ばかりしているから朦朧としているのだと笑った。鳥山という男は、子供の頃から哲学のことばかり考えていたら、脳の機能が麻痺状態になったと言っていた。松林という男は、寝る前にピンク・フロイドの音楽を聴くと、そのまま向こう側の世界に行ってしまうのだと言った。
 善太郎は部員たちの言葉を受けて感銘を受けた。そして、決心した。自分の入るべきサークルはここだと。後日、部室を訪れることを約束して、その場を後にした。


 翌日の放課後、部室を訪れると部員は全員集合していた。みんな相変わらず朦朧としており、善太郎は満足だった。
「おはようございます。じゃ、僕もとりあえず朦朧としますね」善太郎はそう宣言して、朦朧となれる事柄を見つけようとした。しかし、ここには宅急便も来ないし、額を当てて回るバットもない。彼には何も朦朧とできるきっかけが見つからなかった。
 他の部員にも助けを求めてみた。「河原さん、僕に薬飲ませてください」
「ダメよ。この薬強いんだから。あんたが飲んだら、朦朧どころじゃすまないわよ」
「星野さん、現実逃避の仕方を教えてください」
「えー? だって、キミ。充実した顔してるじゃない。逃避する必要なんてないよ」
「七沢部長、僕も恋したいです」
「勝手にしろよ。ただな、恋する人間は2つのタイプがあるんだ。朦朧とできる奴と、できない奴。おまえはどうかな。できなそうだけどね」
「鳥山さん、哲学教えてください」
「いいよ。これでも読むかい」
「ヴィヴィヴィ、ヴィト? ヴィトゲ?」
ヴィトゲンシュタインだよ」
「なんだか難しそうですね。僕、アガサ・クリスティ江戸川乱歩しか読んだことないもんで」
「家で読んできな、坊や。そしたら、いろいろ話そう」
「わかりました。時間のある時にでも目を通しておきますね」そして、善太郎は松林に目を向ける。「あ、そうだ! 松林さん。ピンク・フロイドっていうバンドの音楽、僕にも聴かせてくださいよ」
「いいよ、ほら」そう言って、松林はCDのプレイボタンを押した。「ああ、イントロが流れた瞬間に僕は向こうの世界に行ってしまうよ。さようなら」
 そう言って、松林は一瞬で眠ってしまったが、善太郎にはわからなかった。この音楽のどこがいいんだろう?
 善太郎はだんだん部室にいるのが辛くなってきた。ここは僕のいる世界ではないのかもしれない。
「僕、退部します」
 誰も何も言わなかった。すでにみんな朦朧としてしまっていた。


 善太郎はその後、アガサ・クリスティ研究会に入会し、4年間を飲み会とバイトに費やして、楽しく過ごした。卒業後はサークルの先輩の紹介で、ミステリー雑誌を出している出版社に就職した。
 今でも、善太郎はあの朦朧サークルのことを時々考える。今あの人たちは何をやっているのだろう。普通に社会生活を送れているのだろうか。自分はあの時より少しは大人になったつもりだが、たぶん今あそこを訪れても朦朧とすることはできないのかもしれない。恋も薬も哲学も現実逃避もできない僕。善太郎は今でも一生懸命ピンク・フロイドを聴いている。しかし、朦朧の「も」の字も味わうことができない。