旅を憎む人 〜トラベルヘイター節子の結婚〜

 節子は旅行を好む人間をことごとく憎んでいた。前に付き合っていた昌宏もそれが理由で別れた。
 昌宏は一流大学を出て、誰もが名前を知っている大企業に就職した、世間的に見たらこれ以上ない優良物件だった。節子は大企業で働く人間である以上、否応なしに一流の人間とみなす傾向がある。性格が退屈であろうが、人生経験が乏しかろうが、そんなのは関係ない。このような不安定な時代において、安定した収入と未来を約束されているだけで、称賛に値するではないか。そういった考えの持ち主だった。
 節子と昌宏は、区役所が主催する異業種交流のパーティで知り合った。節子は昌宏の名刺に書いてある企業名を見た時に、この男を落とそうと決意した。そして、節子の思惑通りに、昌宏は落ちた。
 昌宏と付き合った瞬間から、節子は結婚を考えていた。節子は人生の計算が何よりも好きだった。月2回のデートを重ねて、2年で結婚に持ち込めば、その間に会うのは約48回。昌宏は自分に飽きることなく、まさに恋愛の絶頂のさなかで、籍を入れることができる。子供は結婚1年目に1人目、3年目に2人目、5年目に3人目を生む。その時、自分は29歳。心身ともに充実した状態にあり、子育てに息切れすることもないだろう。無計画に無為な時間を浪費している暇などない。人生は短いのだ。
 しかし、そんな節子の計画が崩れ去るような出来事が起こる。昌宏との12回目のデートの時のことだ。
 話題は「ストレス解消」についてだった。麻布で1,2を争う人気のイタリアンレストランで夕食を食べていた時に、節子が仕事に疲れているという話をした。すると昌宏は、ストレスを溜めるとよくないから、いい解消法を見つけたほうがいいと言った。節子が昌宏のストレス解消法を教えてくれと何気なく聞くと、あろうことか昌宏は「旅行」と言ってきた。
「は? 今、なんて言ったの」節子が眉間に皺を寄せて聞き返す。
「旅行だよ」明るく答える昌宏には、節子の心の動揺は伝わっていなかった。「ああいう大企業で働いているとさ、ストレスがすごく溜まるんだよね。だからまとまった連休があると、俺は有休をここぞとばかりにくっつけて、パーッと海外旅行に出かけるんだ。海外に出るとさ、人間的に成長するよ。節子も今度、一緒に行かないか? 俺は旅行経験が豊富だから、いろいろ教えてあげられる」
「ごめんだわ。私が行くわけないじゃない」
「え?」節子の答えに、昌宏は間の抜けた声を出した。ここで大抵の女性だったら、行く行くー!と言って飛びついてくるか、今まででどこの国が一番よかったの?と上目遣いで覗き込んでくるはずなのに。
「あなたが旅行好きだなんて、見損なったわ。大企業でまっとうに働く、尊敬すべき社会人だと思っていたのに」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ。旅行のどこが悪いんだ」
「どこが? すべてよ。旅行に何の意味があるというの? 人間が旅行するようになったのなんて、ここ100年くらいのことよ。それまでは生活に精一杯で、そんな余裕はなかったの。人間はあっというまに年をとるし、遊んでいる暇なんてない。だったら、旅行などに無駄な時間やお金を費やすのはナンセンスだわ」
「おいおい。節子、今日はずいぶん酔っ払ってるんじゃないのか」
「いいえ、私はシラフで言っているのよ。旅行なんて、あんなのただの幻想なの。経験? 成長? 笑わせないでよ。ちょっと長距離を移動したからって何が経験よ。そんなので人間が成長できたら、苦労しないわよ。海外のことが知りたかったら、テレビの旅行番組を観ればいいじゃない。ガイドブックや旅行記を読めばいいじゃない。ほんの少し滞在しただけで、その国のことを知ろうなんてことがおこがましいわ。さようなら」
 節子はそう言い捨てて、席を立った。これっきり昌宏と会うことは二度となかった。


 昌宏と別れてからは、これまで以上に厳重に警戒することにした。大企業に勤める男でも、旅行好きはいるという教訓を得たのだ。1回目のデートで節子がまず最初に質問することは、「旅行をしたことはある?」にした。そう聞くと、男たちは自らの体験を得意げに語りたがったが、そのような相手は早々にパスした。早めに決断すれば、無駄なデートを重ねる必要もなくなる。
 しかし、節子が思った以上に、ほとんどの男たちに国内外問わず旅行経験があった。節子は、いつから日本はこのような堕落国家に成り下がったのだろうと憤ってばかりいたが、そんなある日、節子の理想とも言える人物が現れた。
 男の名前は静太郎と言った。名は体を表すとはよく言ったもので、寡黙な男だった。静太郎は30歳をゆうに過ぎていたため、20代の頃にどうせくだらないバカンスなどで様々な場所に行ったことがあるのだろうと、ハナから期待していなかったのだが、「旅行をしたことはある?」の質問への答えは「NO」だった。その瞬間、節子は静太郎との結婚を決意し、その場でプロポーズをした。節子にも時間がなかった。なかなか相手が見つからず、焦っていたのだ。
 静太郎は絵に描いたような堅実な男で、申し分なかった。しかし、悲劇は何の前触れもなくやってくる。結納や結婚式の日取りも決まり、残りの細かい打ち合わせをしに初めて静太郎の家を訪れた時に、それは起こった。
 節子が何気なく静太郎の本棚を見ると、地球の歩き方が何冊か置いてあった。そして、その横にはジャック・ケルアックの『路上』があった。
 節子は声を震わせて言った。「ねえ、これ何よ」
「え? ガイドブックだけど」静太郎がコーヒーカップを洗いながら振り返る。
「それはわかるわよ。でも、あなた旅行したことないって言ってたじゃない」
「いや、今までは仕事が忙しかったし、お金にも余裕がなかったからできなかったけど、これからは行きたいと思ってるんだよ。ほら、新婚旅行の話だって、したことなかったろ? だから、いい国を探そうかと思って」
「新婚旅行なんて行くわけないじゃない。しかも、これは何よ。『路上』?」
「ああ、それ読む? 面白かったよ。僕みたいなさ、放浪できない人間から見たら、そういう暮らしにすごく憧れるんだ」
「憧れる? ふざけないでよ。あなたも他の男たちと一緒だったなんて」節子は台所の流しのところに『路上』を持っていき、静太郎を突き飛ばして、その場で火をつけた。
「おいおい、何するんだよ。危ないじゃないか」
「この燃え盛る炎が、今の私の気持ちよ。ガハハハハ。くだばりやがれ!」そう言って、節子は静太郎をあっさりと捨てた。旅行に縁がない男など、もはやこの日本にいないのか…。この瞬間、節子は結婚をほぼあきらめかけていた。


 しかし、人の運命なんて本当にわからない。節子はその直後に結婚を果たした。
 相手はウズベキスタン人の留学生だった。名前をホシモフと言った。彼の住む村には旅行をする習慣がないらしく、旅行する意味がわからないと言っていた。その考えは節子の理想だった。ホシモフの日本への留学を、旅行でないと認めるのに節子の中で多少の葛藤はあったが、この機会を逃したら結婚はないと思い、心を決めた。
 節子は自分の大嫌いな海外へ、しかもウズベキスタンのような遠い国に行くことなんてありえないと思っていた。しかし、ホシモフの親戚や両親への挨拶のために、何度か訪問せざるを得なかった。すると、節子はウズベキスタンの自然や食べ物が気に入ってしまい、今では休みをとるたびに、一人でも夫の実家へと遊びに行くようになった。そうこうするうちに節子は、自分が旅行嫌いだったことなど忘れてしまった。