神童との退屈な再会

 私の憧れだった川崎先輩は、関東哲学大学の哲学部のエースストライカーだった。先輩は高校生の頃から“神童”“超高校級”と騒がれ、斬新な哲学を次々と生み出して、全国大会で強豪校をバッタバッタと倒してきた。そして、各大学からの熱烈なラブコールを蹴って、鳴り物入りでこの関哲大に入学した。私は、この大学にまぐれで受かっただけだから、哲学なんかには全然詳しくない。だから、先輩の言っていることは何ひとつ訳がわからない。ただ、哲学に強い思い入れを持つ同級生に言わせれば、川崎先輩は“神”だそうだ。ソクラテスアリストテレスの再来だと言う人もいた。
 私と先輩が出会ったのはドトールでのアルバイトだった。大学の近くにあるこの店では、多くの関哲大生が働いている。私が1年生の時に、先輩は3年生だった。一緒に働いていた女の子たちは「あの先輩は学内の有名人なんだよ」と教えてくれたが、私はイマイチそのすごさがわからずに、いつもきょとんとしていた。そんな哲学慣れしていない私を、川崎先輩は面白がってくれて、よくご飯に連れて行ってくれた。私は先輩の実績や名声と関係なしに、その優しさとユーモアに心惹かれた。おそらく、その頃の先輩は充実した人生を送っていたため、輝いていたのだろう。私は蛾のようにその光に吸い寄せられただけだ。残念ながら、先輩には3年も付き合っている彼女がいたから、私にとっては憧れのままだったが。


 そんな先輩が4年生の時、進路のことで悩んでいたのか、珍しく私に相談してきた。
「栄子、俺は少し悩んでいるんだよ。卒業した後にどうやって食っていけばいいかわからなくてさ」
「そんな大事な相談、私にしなくても…。彼女さんにはそういう話、しないんですか」
「あいつは俺に期待しすぎてるんだよ。神格化されるのは辛いんだ。栄子みたいな、哲学のことをまるでわからない哲学オンチに話しているほうがラクなんだよ」先輩は笑顔を見せた。
「でも、私から見ると、先輩は学内でも有名人だし、たまに本も書いているし、著名な哲学者の方からも評価されているし、どうやってでも食べていけると思いますが」
「いやいや、いくら俺が有名人だと言っても、それは小さい世界の中でのことで、哲学なんてものはさ、金にならないんだよ。バンドならメジャーデビューがあっても、哲学なら一生インディーズ止まりだ」
「はあ」私はその時、まだアルバイトや洋服選びに夢中になっている子供だったから、先輩の難しい悩みがさっぱりわからない。
「だから、とりあえず俺は就職しようと思うんだ」
「いいじゃないですか。どこですか」
「デパートだよ」
 私は少々、意外だった。先輩のことだから、出版社とか大学の教授とか、そういうのを目指すと思っていたのだ。
「なぜですか。先輩なら、もっといろんな職業がありそうなのに」
「だからさっきも言ったろ。哲学は金にならないんだって。俺が就職するデパートは今日本で一番勢いがあるから、生活には苦労しないだろう。そこで生活の基盤をしっかり固めて、哲学に集中したいんだ」
「そうですか」
 私はその後、なんて言ったのか覚えていない。先輩の中では答えが決まっていたようで、なぜ私に相談したのか最後までよくわからなかったが、ただ話を聞いてほしかっただけなのだろう。先輩はその後、付き合っていた彼女と結婚したと風の噂で聞いた。


 そんな私も卒業後、最初に入社した同僚の営業マンと結婚した。そして、あれはゲリラ豪雨が頻発した9月のある日、私は何十年ぶりかに先輩に再会した。先輩が就職すると言っていたデパートでだった。
 私は旦那のネクタイを買おうと思って7階のスーツ売り場に寄った。すると、「お客様、贈り物ですか」と言って近づいてきたのが、先輩だった。
「川崎先輩!」でっぷりと太った姿を見て、最初は人違いかと思ったが、あの野太くてセクシーな声は変わっていなかった。
「栄子? 栄子じゃないか。久しぶりだなあ」先輩が二重アゴを揺らしながら話す。はち切れそうなスーツの胸には「川崎 主任」という名札がある。
「先輩、まだこのデパートに勤めていたんですか」私は久しく先輩のことを思い出していなかったが、まだデパートにいたとは意外だった。
「ああ。いろいろストレスは多いけどね。給料がいいから、なんとか働いていられるんだ。聞いてくれよ。先月、車を買ったんだ」
「うえー、私の旦那は全然稼ぎがよくないからうらやましいです。ところで先輩は、まだ哲学やってるんですか」
「哲学? あああ、懐かしいなあ。もう最近は全然やってないね。仕事とか家庭が忙しくてさ」
「そうですか。やっぱり大人になるって大変ですもんね」私は当たり障りのないフォローをして、その場をあとにした。結局、話はたいして盛り上がらなかった。
 私は帰って旦那にその話をした。
「今日ね、大学時代のスーパースターに会ったの。昔すっごく憧れてたのよ」
「へえ。かっこよかった?」旦那が全然興味なさそうに言う。
「あんまり。なんか疲れてた」私は正直に答えた。
「あっそう。その人、なんでそんなにスターだったの?」
「うーん、よくわからないんだけど、哲学がすごかったみたいなの」
「ははは。なんだそれ。なんで哲学でモテるんだよ。俺、疲れたからとりあえず先に寝るね」
 旦那がだるそうに寝室に行くのを眺め、私はひとりビールを飲んだ。テレビでは勝俣州和が半ズボン姿で転げまわっていた。