読書の渡り鳥

 小学4年生になる渡田鳥彦は色が白かった。その色は白を通り越して、青紫のようだった。鳥彦の趣味は読書だった。2年前の小学2年の時にYoshiの『Deep Love』の面白さに感銘を受け、それから毎日のように読書に耽った。
 だが、鳥彦の読書法には、ひとつ大きな問題があった。本を最後まで読むことができなかったのだ。しかし、それは彼にとっては問題ではなく、あくまでも長所としてとらえていた。鳥彦はいつも言っていた。最初のイントロのワクワク感さえ味わえればいいのだ、と。鳥彦はそんな自分のことを、「読書の渡り鳥」と呼んでいた。そのあだ名は残念ながらクラスメートには定着しなかったが、自己紹介の時にはいつもこう説明した。
 表向きはそのようにカッコいい理由を語ってはいたが、実は鳥彦は怖かったのだ。彼は常に何かを終えることに、とてつもない恐怖を感じていた。映画はもちろん、食卓でテレビのバラエティ番組を観ている時でさえ、最後まで見ることなく席を立った。みんなで『崖の下のポニョ』を観に行った時は、ラストシーンの直前で「ちょっとトイレ」などと言って席を立った。だから、鳥彦はポニョのラストを知らない。CDを聴いていても最後になる前にストップした。
 鳥彦のそんな問題点を知っているクラスメートは、からかい半分で「イントロ大魔神」とか「試食人間」とかのあだ名をつけた。そう呼ばれるたびに、鳥彦は反論した。うるせえよ。世の中にはこんなに物語が溢れてるんだから、最後まで読めない人間が少しくらいいいじゃないか、と。

 そんな鳥彦に大きな試練がやってきたのは、読書の秋の真っ只中である10月30日のことだった。担任の青木先生が、なんと読書感想文を書きなさいと言ったのだ。鳥彦は、遂にこの日が来た、と背筋を凍らせた。これまでの担任の教師は、ラッキーなことに一度も読書感想文を求めてはこなかったのだ。イントロだけでは感想文を書くことはできない。そう思った鳥彦は青木先生を廊下に呼び出し、相談することにした。
「先生、僕、今回の件は辞退させてください」
「なんでだ。理由を言え」
「実は僕、本を最後まで読めないんです」
「大丈夫だ。これまで読んできた本が退屈だったんだろ? それなら先生がすっごく面白い本を教えてやるから」
「違うんです。そうじゃなくて。僕、怖いんだ。最後まで読むと、自分がどうなっちゃうかわからないから。もしどうしても読めというなら」一呼吸置いて、鳥彦は言った。「学校やめます」
「バカなこと言うな。義務教育だから無理だよ。不安だったら、読み終わるまで隣にいてやるからさ」
「でも…」


 結局、青木に押し切られた鳥彦は、視聴覚室に残って、本を最後まで読む特訓をさせられることになった。青木が課題図書として出してきたのは、メイの『赤い糸』だった。
「これはな、2007年のベストセラーになった有名な本だ」
「知ってます。ドラマ化されてましたよね。僕も途中までは読んだんです。僕は陸が好きだったな」
 鳥彦は最初、こんな軽口を叩いていたが、いざ読み始めると、物語の3分の2を超えたあたりから、苦しそうな顔をしだした。顔を真っ青にして、終わっちゃう、終わっちゃうとつぶやいている。それまで青木は横でテストの丸付けをしていたが、鳥彦の様子があまりに危険な状態に見えたため、テストを投げ出して、鳥彦の肩を抱いた。
「大丈夫だ。何も起こらないから。本を読んだくらいで、おまえの人生は終わらないから」
 鳥彦が何度も本を床にたたきつけた。
「もう無理です!」ハアハアと息切れが激しかった。
 しかし、そのたびに青木は元のページを開いてやり、再開を促した。結局、16時間かかって、遂に最後のページにさしかかった。
 青木は言った。「ほら。大丈夫じゃないか。最後まで読むと面白いだろ」
「はい」鳥彦は答えた。その顔は達成感に満ちているようにも見えた。「なんだかドキドキします」
 そして、鳥彦が最後のページをめくり、文字を目で追い終わったその瞬間。驚くべきことが起きた。鳥彦の背中に羽根が生えたのだ。鳥彦は自分でその羽根を見て、「やっぱり」とため息をついた。
「やっぱり?」青木が問い返す。
「僕は結局、読書の渡り鳥だったんです。渡り鳥は結局、定住はできないんだ。僕はこの本の最後まで定住してしまった。でも、これはいけないことだったんです。渡り鳥なら渡り鳥らしく、それぞれの本のイントロだけを渡り歩いていなければいけなかったんだ」
「ちょっと待て。バカなことを言うな。俺がその羽根をちぎってやるから」青木が焦って言った。
「無理ですよ。さようなら。僕は飛び立ちます」そう言って、鳥彦は窓から飛び去った。部屋には『赤い糸』が残されていた。

 青木は真っ青な顔になり、次の日、学校に登校した。鳥彦の親になんて言えばいいんだ。「本を読ませたら渡り鳥だったから飛び去ってしまった」などと言ったら、頭がおかしいと思われる。不安を抱えながら青木が教室に入ると、やはり鳥彦はいなかった。
「先生、鳥彦がいません」生徒が聞く。
 青木はなんとか無理して笑顔を作って答える。「大丈夫。あいつは渡り鳥だからな。またいつか帰ってくるよ」
「そうだね」と、生徒たちが同意した。