戦争とレモン

 さらっと、ふむふむ、あはー、京都、ごま和え、うっかり、ぎょうにんべん、かたつむり、笹の葉、味噌汁。
 こんなもんでいいかしら。1人10個までだったよね。近本千佳は自分の好きな言葉を紙に書いて、投票所となっている近所の小学校へと向かった。途中で、自分と同じような投票用紙を持った人と出会う。みんな、あの紙の中にはどんな言葉が書いてあるのか。千佳は気になった。
 投票はものの10秒ほどで終わった。あとはテレビの開票速報を待つだけだ。千佳は夜まで何もやることがなかったので、近所に住む祖母の家に遊びに行った。
 祖母はミシンで洋服を縫っていた。古いミシンのさびついた匂いがほのかに漂う。「おばあちゃん、わたし来たよ」と言い、鍵のかかっていないドアを開けて入ってきた千佳は、冷蔵庫から缶ソーダを取り出し、テーブルに座ってゴクゴクと飲み干した。
「投票、行ってきたのかい」祖母がミシンを動かしながら言う。
「うん。さっきね」
「どんな言葉を書いたんだい」
「忘れちゃった。京都とか、かたつむりとか?」
 祖母が苦笑する。「自分の好きな言葉だろ。忘れちゃダメだよ」
「おばあちゃんは行ったの?」
「当たり前だろ。今日の朝早くに行ってきたよ」
「なんて書いたの」
「レモン、ポンカン、ミカン」
「酸っぱい果物の名前ばかりじゃん」千佳が笑う。
「好きなんだよ。言葉も、味もね」ミシンを動かす祖母の背中が笑っているように見えた。
「そんな平和な言葉が選ばれるといいね」千佳が日が暮れ始めた空を窓から眺める。


 開票速報は午後6時からスタートする。それまでは各界の有名人たちが予想を行っていた。あるコメンテーターが「今年の予想」というパネルに書いていたのは、恐怖、拷問、蹂躙といった、ありきたりの文字だった。
 それを見て千佳が言う。「今年もこういう感じのになるかな」
「怖いねえ。いつから日本人はこんなことになったんだい」
「さあ。私が物心ついた頃からそうだったよね」
 言葉を選ぶ政治を方法をとったのは、稀代の文学者、森野森蔵が総理大臣になった時からだった。森野は人民の最も望むことがしたいと言い、大人も子供も問わず、好きな言葉を投票させるようにした。そして、初年度には「明るい」が選ばれた。森野は文字通り、明るい政治をした。国の予算を大幅に割いて、日本中に電気を灯したのだ。お陰で夜がなくなり、犯罪は減ったが、寝不足が深刻な問題となった。
 人民の心は正直だ。翌年、選ばれた言葉は、なんと「暗い」だった。森野は、明るいに対する反動ととらえて、即座に電気を撤去した。大方の予想通り、その後、暗くなった街では犯罪が増加した。翌年は「平和」が選ばれて、国は犯罪検挙に力を入れた。
 そのまま平和な時代が続いてくれればよかったのだが、平和ボケに飽きた若者が次の年に選んだのは「スリル」だった。国は公共のバンジージャンプ施設を作り、毎月5日をドッキリデーに定めるなど、スリリングな一大アミューズメント国家を作りあげた。
 若者はこの政策を大いに気に入り、「スピード」「バイオレンス」「刺激」「限界」などと言う言葉を毎年選び、どんどん国家としての雲行きが怪しくなってきた。そして、昨年ついに「戦争」が選ばれた。日本は軍事国家となり、若者たちは嬉々として戦争に行った。もはや年配の人間には際限なく加速する欲望を抑える力はなかった。


 千佳と祖母は夕食の鮭をつまみながら、テレビの開票速報を待つ。
 そして、投票結果が発表された。大方の予想に反して、結果は「レモン」だった。
「キャー! おばあちゃんのが選ばれた」千佳が喜ぶ。テレビでは、「果物の名前が選ばれたのは初めての快挙で」と報道している。
 千佳が祖父を見ると、彼女はあまり興味なさそうだった。「あらあら。なんでレモンなんだろうねえ」
「何言ってるの。おばあちゃん。レモンだよ。レモン! 平和じゃん」
 テレビのコメンテーターが、「戦争に行って疲れた若者たちは今、クエン酸の酸味とビタミンCを求めているのでしょう」と語っている。ちなみに2位は「梅干」だった。
「なるほどー」千佳が納得する。「国民は正直だわ」
「でも、レモンをどうやって政治に活用するんだい」
 千佳は言葉に詰まった。「え? 政府が国民に送ってくれるんじゃないの」
「だとしたら、困ったな」
「なんで?」
「レモン今日買っちゃったからさ。今送られても腐っちゃうだろう」
「それもそうか」千佳が悩む。そして、言った。「そうだ! うちのお母さんのところに持っていけばいいんだよ」千佳の名案に祖母も賛同し、2人はハイタッチを交わす。