21世紀最大のチェスムービー

 チェス・クロックが残り時間15秒を告げた。
 阿藤はナイトを縦横無尽に動かし、一気にキングを落とそうとした。その手を読んだ長尾が自らの得意の戦略に持ち込もうとする。世界を震撼させた、あの手だ。
「長尾さんは卑怯だ。いつもそうやって自分のやり方で勝負しようとする」阿藤が長尾を挑発する。長尾の表情は読めない。
 長尾の次の手は一気にナイトを総動員し、キングを守ろうとすることだった。長尾の手の動きが速過ぎて見えない。ナイトの数は26本。これで阿藤がチェックできなくなった。長尾の計算通りだった。いよいよ苦しくなった阿藤は、観客席にいるラーション師匠に目を向けた。師匠はその青い目で、逃げるな、攻めろと言っていた。
 阿藤は長尾の戦略に惑わされることなく、自らの信念を貫き、相手のナイトをガラガラとなぎ倒し、チェックメイトを宣言した。審判団が「有効!」と大声でジャッジし、武道館に集まった1万5千人の観客が獣のような歓声をあげる。
 勝利を得た阿藤は、真っ先にラーション師匠のところへと駆け寄っていった。
「師匠のおかげです」
「いや、僕の力じゃない。君の実力だよ。今日のゲームはまるでボリス・スパスキーを見ているようだった」
「そ、それは褒めすぎです。師匠! ボリス・スパスキーだなんて!」阿藤の目から、涙がボロボロとこぼれ落ちた。チャンピオンになるまでの、この3年間の苦労を一気に思い出したからだ。真冬のうさぎ跳び、真夏の遠泳、2週間に及ぶ断食、半年にもわたる禁欲。すべてがこの勝利に結びついていたことを、阿藤は今、確信した。
 師匠が阿藤にハンカチを渡す。阿藤は驚いて師匠の顔を見た。師匠はニコリと微笑み、そして言った。「アトウ、私は今日も持って君のコーチを引退する。そしてチェス界からも身を引くよ。お気に入りの長野県にでも妻と籠もって、陶芸を楽しもうかと思っている」
スウェーデンには帰らないのですか」
「アトウ、もう僕は日本に住んで5年になる。スウェーデンみたいな寒い国では、この年ではもう暮らせない」
「長野県も寒いですが」
スウェーデンよりもましだよ」
 ラーション師匠はそう言って、会場の外へと消えていった。阿藤はその背中に向かって、何度も手を振っていた。


「どうですか? チェスを題材にした一大スペクタクル映画! タイトル候補は『チェスとエンペラー』です」脚本担当の市原が、ディレクターの小泉に尋ねる。
「うーん。派手さに欠けるなあ」小泉が脚本を机の上に置き、鼻を掻きながら答える。
「主役をオダギリジョー浅野忠信が演じれば、絶対ヒットしますよ」
「いや、この脚本じゃ、誰が演じても退屈だよ。第一、君がチェスのルールをわかっていないのが見え見えだよ。何なの? この描写。ナイトは縦横無尽に動かないし、ガラガラ倒れないだろ。スウェーデンから来たラーション師匠っていうのも、意味がわからない。残念ながら不採用だね」
「そうですか…。じゃあ、出直してきます」市原が肩を落として、企画部の会議室のドアを開けた。そして、振り返る。「小泉さん。ひとつ聞きたいことがあるんですが」
「なんだ」
「小泉さんが、次当たると思っている映画は何ですか」
「茶だ。チャ」
「茶?」
「茶畑で働く夫婦や大家族の人間模様を描くといい。茶は日本の心だろ。日本人が忘れかけていた“和”のよさを思い出すいいチャンスだ。今、俺はそういうものが見たい」
「わかりました! 茶ですね。これから帰りに茶畑についての本を買って勉強します」
「ああ、頑張りたまえ」そう言いながら小泉は、この若者は本を買わないだろうと思った。そして、いい加減な知識と適当に考えた無茶苦茶なストーリーで茶畑の人間模様を書き上げるのだろう。今回のチェスのように。