新興宗教タバコ教

 朝起きると、恩藤征四郎はタバコに火をつけた。一口目を吸うと、絶世の美女の幽霊が肺の中を笑顔で通り過ぎたような、えもいわれぬ快感に襲われる。「人間は、タバコとお菓子があれば生きていける」それは征四郎の父親の口癖だったが、今では征四郎の人生の座右の銘となっていた。昨日の夜コンビニで買った新発売のポテトチップスの袋を開け、パリパリとその食感を楽しむ。同じくコンビニで買った甘い缶コーヒーを、喉をグビグビと鳴らして飲み、再びタバコの煙で肺の奥を優しく愛撫した。
 今日は「会合」が行われる日だ。征四郎は蔓延する禁煙ファシズムに対抗すべく、喫煙原理主義者たちによるスモークテロを行う団体を指揮していた。狭いアパートの一室だが、会合の日には愛煙家たちが集まり、この部屋は事実上の天国と化す。それぞれが持ち寄った新作のタバコを舐めるように吸い、ポテトチップスやチョコレートなどのディナーをつまみに、糖分たっぷりの缶コーヒーを賞賛しあう。そして、そんな至福の会合には必ず、路上で拉致した1人の非喫煙者を連れてくることになっていた。

ピンポンベルが鳴り、征四郎がドアを開ける。桃澤英輔が顔を出し、美味しそうに鼻を動かした。「ああ、相変わらずいい匂いだ。生き返りますね」
 桃澤英輔に続き、吉野加奈子、庄野源平が入ってくる。そして最後に、菊間武之進が1人の若者の背中を押す。若者の口には猿ぐつわがはめてあり、両手はガムテープで縛られている。
「こんにちは。いらっしゃい」征四郎が言うと、若者は弱々しい視線で非難を示した。
 征四郎を含めて5人の会員が深呼吸をし、祈りの言葉を斉唱した。
「人類の最も偉大な発明よ。我らの神よ。今日も我らに、眩い紫色に輝く愛の煙を与えてくれて感謝します。我は吸い、汝も吸う。汝は吸い、我も吸う」
 そして、それぞれがポケットから出したタバコに火をつけ、煙に向かって祈った。その光景を、若者は怪訝そうな目で見ていた。
「まずは」征四郎が先陣を切る。「彼に煙を吸わせてあげようか」
 菊間武之進が猿ぐつわを取る。若者は呼吸しようとするが、煙まみれな部屋の中で苦しそうに咳き込んでしまう。
「この子はどこから連れてきたんだ」征四郎が聞く。
「新宿のユニクロの試着室にいたところを拉致してきました」菊間が答える。
「何か一言ないの」吉野加奈子が場違いなことを言ってくる。若者は困ったような顔を浮かべ、「僕をどうするつもりですか」と言う。
「簡単だ。タバコの美味さを知ってもらうだけでいい。それで、周りの人に勧めてくれれば、1人が10人になり、10人が1億人になる。地道な作業に見えるが、我々のこの方法で日本を世界一の喫煙国家にするつもりだ」征四郎が話す。
「ニコチンの煙で地球を覆うのが夢なのよ」吉野加奈子が付け加えた。
「もしも断ったら?」と若者が聞くと、吉野は笑いながら答える。「好きになるまで帰さない」
 それを聞いて、若者以外の全員が笑った。
「でも、僕はタバコを吸ったことがないんです」
「大丈夫。私たちが、その美味しさを教えてあげるから」吉野加奈子が言い、会員たちの布煙活動が始まった。咳き込む若者の背中を優しくさすり、煙を肺にスムーズに入れる方法を伝授する。もちろんタバコはタールの軽いメンソール系のものから始め、次第にコクがある濃厚な味わいのものに切り替えていく。若者はみるみるうちに煙の味を覚え、3時間もすれば立派なニコチン中毒になっていた。


 それから3ヵ月後、若者は征四郎の家に泊まりこみ、弟子としてタバコの1から10までを学んだ。会員たちとともに拉致及び布煙活動を行い、数多くの愛煙家を世に増やした。家に帰らない息子のことを心配した両親が征四郎の家まで連れ戻しに来たが、その両親をも愛煙家に変えたほどだ。
 やがて、征四郎たちの地道な努力の甲斐あって、日本は97%が喫煙者という、未曾有のタバコ消費国家となった。国際社会からの容赦ない非難を浴び続けたが、日本人は持ち前の勤勉さと生真面目さでそれに耐え、ただただタバコを吸い続けた。


 そしてまた年月が過ぎた。
 この150年のうちに、新型インフルエンザなどの正体不明の病気が次々と表れ、人口を残酷にも速いペースで減らしていったおかげで、肺ガンなんて恐るるに足らずという風潮が世界中にできあがった。愛煙時代の記憶を取り戻すべく、再び世界の人々がタバコを吸い始めた。すると、あろうことか、タバコでストレスや過労などが緩和されたお陰で、謎の現代病のほとんどは死滅したのだ!
 恩藤征四郎及び初代会員たちはその時すでに寿命を迎えていたが、各方面からの圧力に負けずタバコを吸い続け、人類を滅亡の危機から救ったということで、歴史的偉人として永遠に語り継がれることになった。