幸福な蚊

 田中は蚊を2匹飼っていた。2匹にはそれぞれ、安永と木村という名前をつけていた。その理由は、田中の大学時代の友人であった、安永と木村が3年前に南米2人旅に行って帰ってこなかったことにある。彼らは完全に連絡が途絶えていたため、この世にはもういないのだと思われていた。2年ほど前の夏の日に、2匹の蚊が同時に田中の手の甲に止まっていたので、田中はこれは絶対に安永と木村の生まれ変わりだと思い、名付けた。
 蚊の寿命はおよそ1ヶ月と言われているが、この蚊は2年経った今でも元気に飛び回っている。餌は主に田中の血だった。田中は、安永と木村はきっと南米旅行で苦しい思いをして、腹もすかせていただろうからと思い、栄養のある血を食べさせるために、肉をたくさん食べた。すると、田中は蚊を飼い始めた時よりも15キロも太った。血を抜かれているのに太るとは皮肉なことだ。
 そんなある日、田中の家のドアが強くノックされた。田中が出てみると、そこにはよく見た顔があった。
「ひさしぶり」
 安永と木村だった。蚊になってはいなかった。
「おまえたちがいなくなったから、蚊になったかと思った」田中が言うと、
「バカを言うな。いくらなんでも蚊はひどいぞ」安永は笑った。
 しかし、田中は2年も長生きする蚊が普通の蚊であるわけがないと思った。
「じゃあ、この蚊は誰なんだ?」
 3人は考え込んだ。結局、結論は出ず、引き続き、田中が飼うことになった。名前を変えるのは躊躇われたのっで、結局、安永と木村と呼び続けることにした。人間である安永と木村は、自分たちの名前のついた蚊に親しみが湧くのか、よく田中の家に来ては蚊たちと遊んだ。自分たちの血も吸わせた。
「なんか、自分で自分に餌を与えているみたいで不思議な感じだな」安永は言った。
「でもさ、人間が食べ物を食べるってそういうことじゃないのかな。自分へのご褒美というか」木村がよくわからない理屈を述べる。
 結局、この2人も自分たちの分身である蚊に美味い血を食べさせたいということで、肉を食べる量が増えた。そして太った。蚊たちは人間たちの期待通りに、ますます長生きして、元気に部屋の中を飛び回った。