指名はまだか

 電話をただ待ち続ける。この時間が一番辛いものだ。貞原は今年もドラフト会議に自分が指名されないかどうか待っていた。自分がドラフト会議にかけられたらどうしよう、という夢を見てしまったのは8年前のことだ。その時の夢の内容が当時の自分にとってはあまりに刺激的で、起きたときには心臓が早い動悸を刻んでいた。口のまわりにはヨダレがべっとりとついていた。
 それ以来、貞原は「ドラフト」の4文字が自分の人生を救い出してくれるに違いないと思い込んだ。貞原の人生には順風満帆なことなど何もない。苦節の連続で、何をやっても無気力で力が入らない。もはや失踪するしかないかと思っていた矢先だったので、この夢にすがるつもりで、毎年ドラフト会議の日には、近所にある市民会館の集会室を借りて、記者会見用の机と電話を用意した。電話が鳴ることは一度もなかったが、電話を待っているこの1日があるだけで、残りの364日の労苦が報われる気がした。
 今年は菊池雄星というスターがいることで、外れ1位でもいいから、自分も1位指名されるのではないかと思った。しかし、電話は鳴らなかった。
 今年もダメか。貞原があきらめかけた気持ちで机を片付けていると、電話が鳴った。その携帯電話はドラフト会議の1日のためだけに契約しており、球団関係者以外には親にも友達にも教えていない。貞原は起きたまま白昼夢でも見ているのだろうかと思い、恐る恐るディスプレイを見た。そこには非通知とあり、半信半疑で通話ボタンを押した。
 相手は感情が何も読み取れない声で言った。「貞原さんですか」
「はい」
「あなたが阪神タイガースの7位指名されました」まるでテープに録音された音声のような無機質な声で男は言う。
 貞原はまず最初に、これは誰からが自分をハメようとしているのではないかと疑った。「嘘ですよね」
「本当です」
「僕は全然有名じゃないですよ」
「有名じゃなくていいんです。あなたが8年前から、たった1人でドラフトを待ち続けている情報を、我々スカウトはキャッチしました。並みの精神力でできるものではありません。今のタイガースは、あなたのような精神的支柱を求めているのです」
「実は僕、野球できないんですが」
「え?」沈黙の後に、男の声に少し動揺が走る。「野球が、できない?」
「そうです」
「そんなこと言っても、少しは得意なんでしょう」
「いや、全然です。体育の成績はずっと1でした」
「じゃあ、なんでドラフト指名を待っているんですか」
「わかりません。こうするほかなかったんで」
「ふう」男はため息をついた。「まさか、野球ができないだなんて…。その情報はキャッチできていなかった」
「野球ができないとダメですか」
「そうですね。うちは一応野球チームですので。もしそのようなことであれば指名を見送らせていただきます」
「そうですか」
 電話を切った後に貞原は後悔した。本当のことを言いすぎた俺はバカだ。次は嘘でもいいから野球がうまいと答えよう。そう思って翌年も翌々年も待ち続けたが、結局その年以来、二度とドラフトで指名されることはなかった。