和子のトラウマ ダルビッシュ編

 和子にはあるトラウマがあった。

 和子は小学生の頃、ダルビッシュが大好きだった。地元が北海道だったこともあり、雑誌の切り抜きやポスターを部屋に貼りめぐらすなど、親が心配するほど、昼夜を問わずダルビッシュのことを考え続けていた。
 しかしある日のこと、家族でダルビッシュの試合をテレビ観戦していたら、突然ダルビッシュが鳥にしか見えなくなってしまった。
 翌日、和子は同じダルビッシュファンの今日子に相談した。今日子は和子の目の悪さを容赦なく罵った。
「どこが鳥なのよ。ダル様はこの世で一番美しいお顔の男性なのよ。ダル様が鳥ならば、全ての人間の女は鳥を見たら欲情するようになってしまうわ」
 和子は今日子にそう言われ、反省した。なんとか目を細めて見たり、わざと度の強いメガネをかけるなどの努力をしたが、一度狂った歯車はなかなか元に戻らなかった。
 自分自身の中にとどめておく分ならまだよかったが、遂に周囲にその秘密がバレる日がやってきた。給食にチキンソテーが出たのだ。和子はあの日以来、鶏肉を食べることができなくなっていた。説明するまでもなく、ダルビッシュを食べているような気分になったからだ。チキンソテーを見た瞬間も、内心の焦りと動揺を隠しながらも、さりげなく手をつけないで残した。しかし、その和子の企みも、教師の進藤によってあっさりと見破られた。
「和子、なんでおまえチキンソテー残してるんだ」
 進藤の教育方針はスパルタで有名だった。給食を残す生徒は容赦なく居残りさせ、食べさせるまで家に帰さなかった。この日も和子が残したのを見て、自分の出番だと大いに張り切っている様子だった。
「理由を言え。理由を」
 進藤のしつこさを和子は十分わかっていたので、正直に理由を言った。
ダルビッシュに見えるからです」
 教室は爆笑で包まれ、その日から和子はダル子と呼ばれるようになった。


 他のクラスの一度も話したことのない男子からダル子と呼ばれ、和子は憂鬱な気持ちになった。自分に好意を持っていると言われていた男子が、ダル子と呼ばれ始めてから、気持ちが離れていくのを感じていた。この状況を打破するためにと、学級会の時間を使って、反論を試みたこともあった。
「ダル子だと、私がダルい女みたいに思われてあんまりです。せめて、“ビッシュ”と呼んでください」
 進藤は「いいかもな」と曖昧なコメントを述べてお茶を濁したが、結局それも定着しなかった。
 和子は結局、大学を卒業するまで北海道を出なかったので、小学校時代のあだ名が数少ない友達を通じて受け継がれていくのを防ぐことができなかった。ようやく東京に就職が決まった時は飛び上がって喜んだものだ。これでダル子からおさらばできる、と。
 会社では、よくできる新入社員として周りからの評価も高かった。自分は東京ではダル子ではなかった。トラウマになって以来、なかなか正視できなかったダルビッシュの試合も観れるようになっていた。いよいよ私の人生が始まった。そう思ってた矢先のことだ。
 なんと小学校時代の同級生の女子が同じ会社に転職してきたのだ。和子はその後起こる悲劇のその瞬間までその事実を知らなかったが、彼女がつかつかと和子の机に歩み寄ってきて言った。
「ちょっと、ダル子じゃない? わー懐かしい!」
 それ以来、和子は、会社の同僚からもダル子と言われるようになった。