逃げろ! 自称バンドマン

 沖縄行きのフェリー乗り場に、男はいた。サングラスにマスクをかけ、頭にはニットキャップ。腕を組んで、よく寝ているように見えた。本木慎司が男の隣に座ると、男は目を覚ました。
「もう、フェリー行っちゃったよ」本木から男に話しかけた。
 男は眠そうな顔をして、「ああ、そうですか」と答えた。目にはクマがあり、頬は肉感がなく、男は何日も寝てないように見えた。
 本木は男に興味を持ち、質問をした。「実は俺も、フェリーの出発時刻に遅刻してしまったんだ。君はどこから来たの。そしてどこまで行くの」
「新潟から来ました。沖縄でもどこでもいいから遠くに行きたいんです」
「何かあったの」
「うちの親や親戚は全員政治家なのですが、僕は政治家になるのは嫌だったので、東京で音楽をやっていたんです。音楽をやっていることは親に内緒でした。彼らは僕が法律の勉強しているものだとばかり思ってました。でも、それが先日、バレてしまったんです」
「それは気の毒に。だから逃げてるわけ?」
「そうです。うちの家族は普通の人間の常識では考えられないほど厳格なので、きっと捕まったら命さえ奪われるかもしれません。一家にバンドマンがいるなんてことになったら、末代までの恥さらしですからね」
「バンドはどんなのをやっていたの?」
「それが…実はバンドはやっていなかったんです。不運なことに、一緒にやれるようなメンバーがいなかったんです。ほら、出会いって運に左右されるじゃないですか。たまたま僕はなかなかいいメンバーにまだ出会えてないだけだとは思うんですが」
「じゃあ、どうやって音楽活動をしていたの?」
「音楽雑誌を読んだり、他のバンドのCDを聴きながらイメージトレーニングをしたり、楽器屋でブラブラしたり、ですね。あとは、こういう曲を作ってみたいな、とか考えてみたり」
「実際に曲を作ったことはなかったんだ」
「そうですね。丸々1曲を完成させたことはありません。歌詞っぽい言葉を書き溜めたノートはたくさんあるんですが。3冊ほどは」
「バンドマンで食べていきたいっていう夢はあるんだ」
「はい、ありますね。いいメンバーがいて、いい曲ができれば、それも可能だと思っています」
「本気なんだね」
「そうですね。まあ本気だと思います」しかしながら、「本気」と言っている割には男には全く覇気が感じられなかった。
「よし、本当に本気なら俺とバンドを組もうか」
 本木の申し出に男は面食らったようだった。「え? そんな…悪いですよ。いきなり知らない人と組むだなんて」
「君はさっき出会いを待っているって言っただろ。俺は君が探していた人物だと思うよ。こう見えてもな。俺は昔、あるバンドでデビューしたことがあるんだ。だから、いろんな事務所の人間とか知っているし、とんとん拍子でスムーズに事は進むと思うよ。曲は俺が作れるからさ。君は演奏してくれるだけでいい。ソロアーティストよりバンドのほうが、メーカー側も売りやすいんだ。君は今風の顔をしているから、女性人気も出そうだからね。これも何かの縁じゃないか」
「え、でも」男は少し不安そうな顔を浮かべた。「2人じゃバンドにならないじゃないですか」
「そんなの大丈夫だよ。真心ブラザーズだって、くるりキセルだって2人じゃないか」
「あ、確かに」
「よっしゃあ。じゃあ、決まりだ。な?」本木はそう言い、2人は固い握手を交わした。
「じゃあ、まずはバンド名から決めようか。死刑台のエレベーターってバンド名はどうだい?」
「いいですね」
 返事の割りには、男の表情は優れなかった。本木は心配になり、聞いた。
「どうしたんだい? 体調悪いの?」
「そんなことないんですが…、ちょっとトイレに行ってきていいですか」
「いいよいいよ。行っておいで」
 男がずいぶん疲れているように見えるのが気になったが、本木は久しぶりに組んだバンドに心が躍っていた。まずは曲作りから。それからバンドの方向性を決めていって、自分が持っている人脈を中心にデモテープの絨毯爆撃を加えよう。
 そんな妄想に耽っていたが、男は戻ってこなかった。心配になった本木がトイレに男を捜しに行くと、そこには誰もいなかった。トイレの窓が大きく開いていたので、本木がそこから外を見てみると、男がものすごいスピードで駆け去っていくのが見えた。
 それを見て本木は思わず口に出していた。「なんだ、元気じゃん」
 男の後ろ姿は、先ほどのぐったりとした姿とは別人のようにイキイキと見えた。本木は気付いた。男の特技は音楽ではなく、逃げることなのだと。