早く昆虫になりたい

 正志の日課は毎朝、出社前の30分間を公園で過ごすことだった。この時間はちょうど昆虫たちにとって過ごしやすい時間のようで、てんとう虫やバッタ、カナブンやちょうちょなど、多くの虫の姿を見ることができた。現在、都会には虫の生きる場所が少なくなってしまったため、このような公園は正志のとって非常に貴重でありがたいものだった。
 正志は小さい頃から、夢は虫になることだと言い続けてきた。しかし、多くの人々がミュージシャンや俳優になりたいなどの夢を叶えられないのと同じように、正志も夢を叶えることができずに、こうして普通の会社員になっていた。
 そんなある日の朝、正志がバッタの跳躍を食い入るように眺めていると、見知らぬおじいさんから声をかけられた。
「そんなに虫になりたかったら、わしが今すぐ虫にしてあげよう」
 正志はこの申し出を聞いて、すぐさま飛びついた。このおじいさんがどんなに不審者でも、言っていることがどんなに非現実的なことだとしても、現在の日常から抜け出すためにはどんなものにも飛びつきたかった。
「なります。今すぐなります」
 正志がそう言うと、おじいさんは笑った。「虫として生きるのはすこぶる大変なことじゃが、大丈夫かな?」
「大丈夫です。僕は本当に虫が大好きなんです。もう人間には未練はないんです」
「よし、それじゃあ何になりたい?」
 おじいさんの問いに、正志は即答した。「てんとう虫になりたい。僕はこんなにオシャレにも自信がないのに、てんとう虫ときたら、あんなにキュートな水玉をさりげなく着こなして、それでいて人間からもかわいがられている。僕は高田馬場のUSバンバンという激安量販店で限度額3000円の洋服しか買ったことがないんです。一度でいいから、BEAMSみたいなファッションを身にまとってみたいので、今すぐてんとう虫にしてください。お願いします」
「わかった。ほれ!」
 正志はその場で気を失った。そして、起きると、全てが緑の世界になっていた。
 よく見ると、緑なのは、雑草の根元のようだった。自分の体が小さくなったので、全てのものが巨大に感じられるようだった。正志は喜んでガッツポーズをしようとしたが、そのような器用な動きはてんとう虫の手足にはできないようだった。背中の水玉模様に惚れ惚れとしたかったが、鏡もないため自分の姿を見ることができなかった。
 正志はまず何をしようか迷い、空を飛んでみた。しかし、思ったよりも優雅に飛ぶことはできずに、すぐに疲れてしまった。慣れないことはするものじゃない。そう思って草の先に止まって呼吸を整えていると、頭上が突然真っ暗になり、黒い空が正志を目がけて降ってきた。正志は驚いて、間一髪それをよけた。力を振り絞って、ほんの50cmほど横に飛び上がって見てみると、スーツの裾と靴が見えた。どうやら昼休みになって、近所の会社員たちが弁当を広げに来たらしい。正志はその人間たちの群れからどうにか逃げて、公園の外へと飛んでいった。
 すると、街には正志の居場所はどこにもなかった。排気ガスを吸うと、それだけで窒息しそうになったし、喉が渇いても飲める水もない。挙句の果てには、カラスから食べられそうになり、逃げ惑うだけで精一杯だった。BEAMSと思っていた憧れの羽根は意外にもネバネバとして、油っぽくて、重たかった。寝ゲロを吐いてしまった洋服をそのまま着ているような不快感は拭えず、今すぐにシャワーを浴びたかった。
 正志は一生懸命あのおじいさんを呼ぼうとした。「助けてくれ。人間に戻してくれ」と。しかし、人間としての声は出なかった。そしておじいさんはもう二度と現われなかった。