ケイコとマナブと新人君

 ケイコとマナブが部屋の中でせっせと自分探しに勤しんでいると、ピンポンベルが鳴らされた。ケイコがドアを開けると、そこには知らない男性がいた。この辺りは物騒だから、ケイコは警戒し、大声でマナブを呼んだ。マナブは急いで玄関にやってきた。「ハニー、僕のスウィート。一体全体どうしたって言うんだい?」
「この人、私知らないわ」ケイコがマナブに抱きついた。
「僕も知らないよ」マナブが男に一歩近づいた。「君は誰だね。人違いだったら速やかに帰ってくれたまえ。僕たちは今、自分探しで忙しいんだ」
「新人です」初めて男が口を開いた。
「新人? 何の新人だい?」マナブが聞くと、男は意外な答えを口にした。
「人生の、です」
「人生の新人? そりゃあ僕たちだってそうさ。人は誰でも人生の新人だよ」
「何でもしますんで、ここに置いてくれませんか。遠い場所から東京に出てきて住む場所がないんです」
「わかった。なんでもするというなら、一緒に人生を勉強しよう。僕らもまさに自分探しの真っ最中なんだ。いいね、ハニー。みんなで一緒に自分探しをしよう」
「いいに決まってるじゃない!」ケイコが飛び上がって賛成した。
 

 それから3人は、自己啓発本などを読み漁り、自分探しに耽った。ケイコとマナブはいまだ曇った頭で堂々巡りを続けるばかりだったが、新人君は飲み込みが早いようで、みるみるうちに顔つきが変わってきた。
「新人君、キミさ、顔が変わってきたね」マナブが聞くと、新人は得意そうな顔をした。
「そうですね。もう僕はここへ来た時とは違います。あなた方を追い越してしまった気がするので、僕はもう出ていきます」
 新人はそう言って部屋を出て行った。ケイコとマナブはその後、何年もの間、自分探しをしたが結局見つからなかった。


 そのまた20年後、新人が再び訪ねてきた。「その節はお世話になりました」
「おお、君は新人君じゃないか」
「ケイコさん、マナブさん、あなた方はまだ自分探しをされてるんですか」
「そうだよ。ちっとも見つからなくてね。そこでひとつ聞いてみたかったんだが、君はあの時、どんな自分を見つけたんだい」マナブはその答えを聞き逃すものかと、手にメモを持っていた。
 ケイコもそれに続いた。「そうよ。私たち、もうすぐ人生が終わってしまいそうで焦っているの。もう新人なんて呼ばないから教えてください」いつのまにか語尾が敬語になっていた。
 新人は声を出して笑った。「わははは」
 ケイコとマナブは目を合わせ、そしてマナブが言った。「何がおかしいんだい」
「あなた方は本当に変わらないですね。僕はあの時、実は何も見つかってませんでした。ただ、見つかったフリをしたら、なんとなくそんな気になれるかなと思って、あの時そう言っただけです。今でも僕は自分を見つけてませんが、いろんな経験をしましたよ。競馬のジョッキー、気象予報師、お茶のラベルをデザインする人、路上生活者、スポーツ用品店のオーナー、ペ・ヨンジュン氏のモノマネ芸人、経営コンサルタントなどなど。いやあ、楽しい20年間でした。僕はここに来たことで、逆に動くことの大切さを思い知らされました。本当にありがとうございました」
 新人はそう言い残して颯爽と去っていった。去り際にはレモンスカッシュの匂いがした。
 ケイコとマナブは黙って荷造りを始め、部屋を出た。マンションの玄関の前で、お互い無言のまま目と目でエールを送りあい、逆方向に別れた。その後の2人の行方は誰も知らない。