間違いだらけの蟹工船

 保坂が溜池山王の交差点で信号待ちをしていると、手前にいたエリートビジネスマン風の男の耳からピンク色の物体が現われた。最初は、耳に詰めていた綿が何かの拍子で外に飛び出て、それに血が付着しているのかと思った。しかし、その甲殻類らしい角ばった動きは、紛れもなく蟹だった。
 ただ、周囲にも大勢の人間がいるため、気安く声をかけるのは憚られる。下手に自分が注目されるのも嫌なので、保坂は男とともに交差点を渡り、人通りの少ない場所まで尾行した後に背後から声をかけた。
「すみません」
男が振り返る。「何ですか」
「肩に蟹がついているみたいですけど。あ、正確には耳から出てきたのかな」
「あれ? 本当だ」男は自分の肩の上にいる蟹に触り、その存在を確かめた。「出てこないようにと、耳の奥に入れておいたんですけどね。ずいぶんおとなしくしているなと思ったら、外に出てきてたんだ」男は悪びれもせずに言った。
「失礼ですが、耳に蟹を入れたら痛くないですか」
「全然平気ですよ。僕にとっては蟹は小さい頃からの友達ですからね。あ、このすぐ先に僕のマンションがあるんですけど、来ませんか」
 男のフレンドリーな調子に安心したのと、湧きあがる好奇心に抗えずに、保坂はマンションまで着いていった。



 マンションは外見からして豪華だった。目測家賃はおよそ月50万円といったところだろうか。さすがはエリートビジネスマンだ。
 男はドアを開ける前に、何度も念を押した。
「いいですか。驚かないでくださいね。この中には蟹しかいませんから」
 そう言って、男がドアを開けると、中から蟹という蟹の波が壁のように押し寄せてきた。それを言葉にするなら、何のヒネリもないが「蟹波」や「蟹壁」といった表現がぴったりだった。男は満員電車を押し込んでアシストする駅員のように、蟹の中へと飛び込み、ズブズブと埋め込まれていったかと思うと、そのまま姿を消した。
 保坂が呆気にとられて見ていると、男が蟹の壁から顔を出した。
「何をやってるんですか、早く来てくださいよ。コーヒーでも淹れますよ」
「いいえ、ちょっと僕には無理そうです」
 保坂が断ると、男はがっくりした様子で、まずは頭から、そして上半身を、最後に手足を蟹の壁から引き抜き、ドアを閉めた。その際にこぼれ落ちた蟹たちを大事そうに拾い上げ、新聞受けの中から部屋の中に入れていた。
「やっぱり気持ち悪いですかね。女の子とか連れ込んでも悲鳴をあげて帰ってしまうんですよ」男は言った。その髪の毛や体からは蟹の匂いがプンプンと漂っている。
「どうしてこんなに蟹を飼っているんですか」この異常な状況の中で選びうる、最も愚問な気もしたが、あえて保坂はぶつけてみた。
「小さい頃から友達がいなくて、近所で蟹と遊ぶことだけが生き甲斐だったんです。僕の住んでいたところは田舎でね。蟹のたくさん採れる村だった。できることなら、一生その村で蟹と戯れながら生きていきたかったのですが、その村がダムの底に沈むことになって、僕の家族は東京に引っ越さなくてはいけなくなったんです。東京での暮らしは悲惨なものでした。いじめ、運動不足、光化学スモッグ酸性雨、物価高…。どこへ行ってもコンクリートジャングルしかないし、何よりも、話し合える唯一の友達である蟹がいないんだから、悲劇以外の何物でもないでしょう?」
 保坂は話の腰を折らないように、慎重に相槌を打った。
「そこで僕は誓ったんです。大人になったら一流企業で高い給料をもらって、好きなだけ蟹を飼って一緒に住もうと。だから今の生活は僕にとって天国なんだ」そこまで語り終わると、男の目には恍惚とした光のようなものが浮かんでいた。
 保坂はコメントに苦しみ、当たり障りのないことを言って、その場を立ち去ろうとした。「なんだか…。今流好りの『蟹工船』みたいですね。僕は読んだことがないんですけど」
 すると、男の顔が曇った。「『蟹工船』? 全然違うんじゃないですかね。僕も読んだことないんですが、あれは蟹の缶詰を作ったりして、蟹を虐待する人たちの話じゃないんですか」
 保坂は口を滑らせてしまったと思い、必死のフォローを考えた。「いや、僕もあらすじは詳しくは知らないんですが、『王様のブランチ』で紹介していたところによると、あなたのように蟹を愛してやまない男たちが、蟹を加工する悪質な業者たちと戦い、最後に蟹を救い出す話みたいですけどね」
「ほう、なるほど」男の目に再び光が灯った。「ということは、きっとエンディングでは、その主人公たちは僕のように蟹に囲まれながら、優雅な余生を送るんでしょうね」
「そうそう! 今やっている新しい映画版では、きっと松田龍平があなたのような蟹を愛する男の役を演じているんでしょう」
「あはは。松田龍平か。弱ったな。不釣合いもいいところじゃないですか。さっそく映画館に見に行かないと。あ、もしよかったら今度の週末にでも、一緒にどうです?」
「すいません。あいにくですが、僕は今月と来月に長期出張が入ってしまって、しばらく東京にいないんですよ」保坂は映画を一緒に見たら何をされるかわからないと思って、適当な嘘を言って断った。正確なあらすじは知らないが、少なくともこの男が喜ぶ内容ではなさそうだ。
「そうですか、残念ですね。それなら、ここでもう少し『蟹工船』について話しませんか」
「お言葉ですが、そろそろ次の仕事に行かなくてはいけないんです」保坂はそう言って、エレベーターに乗った。
 男は「ありがとうございました」と礼を言い、エレベーターのドアが閉まる瞬間まで深々と頭を下げていた。