ハアハアしちゃうぞ

 カタノサトルはトランプのクイーンを見て興奮する男だった。あの悩ましげな瞳と慈愛に満ちたほっぺた、イルカのようにツンとすました口元…。
 サトルは現実の女性に全く興味がなく、自身が働く農業系出版社からもらった給料のほとんどをトランプを買うことに使った。もちろんクイーン以外には興味がないので全部捨てた。特にキングとジャックはいつもクイーンを挟み撃ちにして隣でニコニコと勝ち誇ったいやらしい笑みを浮かべているように見えて気に食わなかったので、ビリビリに破いた。機嫌が悪い時は炭火で燃やしたものだ。
 サトルはいつも大きなリュックを背負っており、会社の同僚にはいつも「おまえ、その中に何が入ってるんだよ」と聞かれるが、それを明かしたことはない。リュックの中には、6000枚を超えるクイーンのカードが入っていた。家には3万枚のクイーンが待機しているので、合わせると3万6000枚。つまりは9000セットのトランプを購入したことになる。
 この日は仕事でトラブルが続きストレスが溜まっていたので、サトルは我慢できなくなり、帰宅途中に路地裏にしゃがみこんで、クイーンのカードを道路一面に広げた。そして、クイーンたちの笑顔に囲まれた。
 サトルはこうしているだけで幸せだった。何をするでもない。ただクイーンがいればそれでいい。サトルが呼吸を落ち着けようと、深呼吸をしていると、そこに警官が声をかけてきた。職務質問だ!
「おい、そこのおまえ。今、何をハアハア言ってたんだ。道端でハアハア言うやつなんて、ろくなもんじゃないぞ」
「ハアハア言ってたのは、呼吸を落ち着けてただけですよ」
「ああ? 呼吸を落ち着けてただけですよ、ですか。悪知恵の働くやつの言いそうなことだ。うまい言い訳を考えやがって、それで許されるとでも思ったか」
 そう言って、警官はサトルの大切なクイーンのカードを取り上げようとした。「これは何だ? ああん?」
「おいやめろ! 何するんだ。僕のクイーンに」
「なんだこれ。トランプじゃねえか。おまえ、さては筋金入りの変態さんだな。逮捕する!」
「はうっ」
 手錠をかけられたサトルは警官に引きずられながら拘置所へと連れられていった。結局、ただ路上でトランプを広げていただけということで罪には問われなかったが、職場の人間にはリュックの中身がクイーンであることがバレてしまった。彼らは明らかにサトルを見る目が変わったように見えたが、表向きには重度のトランプマニアとして片付けてくれた。
 あれ以来、サトルはクイーンたちを外に出すことをやめた。仕事が終わると一目散に家まで駆けていって、「ただいまー!」とクイーンの山の中に飛び込むのが一番の楽しみになった。