キイナ色リバー

 ドイツの旧東ベルリンにある「ジャクバクドドメトラ」というカフェに入ってみた。すごい名前だ。ジャクバクドドメトラ。それがどんな意味かどうしても知りたくて、アントニオ・バンデラス似の恰幅のいいウエイトレスに英語で尋ねてみる。「このジャクバクドドメトラはどういう意味なんだい」
ウエイトレスは答えた。「キイナの川という意味よ」
「キイナ? キイナって何だい。川はわかるけど、キイナの意味がわからない」
「色の名前よ。それは英語になってないの? もしかしたらドイツ語にしかない意味の言葉なのかもね」
「その色はどうやってみることができるんだ。僕は知りたい」
 そう言うと、ウエイトレスは私の腕を指差した。
「あなたの色よ。日本人でしょ。お店に入ってきた時からわかったわ。私たちの国では日本人の肌の色をキイナと言うの」
「ん? ちょっと待って。アジア人ではなくて日本人だけ?」
「そうよ。日本人は日本人にしかない色を持っているの。それは誇りに思っていいわ。ただ、そこには多少の皮肉も込められているのよ。あなたたちはどこに行っても、他所の国の人と交わることはないでしょ。私たちがキイナと呼ぶ時、多少はそんな皮肉が込められているの」
「ちょっと、ちょっと待ってくれ。僕は今こうして単身でドイツまでやってきて君と愉快に話している。それなのにキイナなのか」
「そうよ。あなたはどこまで言ってもキイナ。私たちの中ではそれは変わらないの」
「じゃあ、どうしてそんな店の名前にしたんだ。客層のターゲットが全くわからない」
「あなたと私がこうして会うためかもね」
 そう言ってウエイトレスは厨房へと消えて行った。私はもう少し彼女と話すために、彼女が出てくるのを待ったが、しばらく待っても出てこなかった。その日、オランダ行きの列車のチケットを買っていた私は、乗り過ごす可能性があったので店を出た。また今度ベルリンに来た時に寄ることにしようと思った。


 しかし、その翌年、同じ場所に行ってみると、その店はもうなかった。残念だった。もしかしたらどこかに移転しているかもしれないと思い、その向かいにあるタバコ屋の主人に聞いてみたが、主人は店の名前すら聞き覚えがないようだった。
「ジャクバクドドメトラ? その単語の意味は何だね?」
「キイナ色の川という意味のドイツ語だったと聞いています」
「キイナ? それは中国の言葉かい?」
「私は日本人ですが、私たちの肌の色を表す単語だと聞きました」
 そう言うと、主人はそんな言葉は知らないと言って、私を胡散臭そうな顔をして店の中に消えてしまった。
 その後、会うドイツ人に「キイナ」の言葉の意味を尋ねて回ったが、誰もその意味を知る者はいなかった。私は混乱したが、同時に興奮していた。
 わけがわからない。あの店には確かに行った。ウエイトレスにも確かに会って話をした。それなのに、その出来事が現実だか夢だかわからないことになってしまうのが、海外旅行の醍醐味なのだ。