ロシアンのんびり屋

 中学の時に国語を教えてくれていた古村先生がロシアへと旅立った。先生はロシア文学が大好きで、あの激動を絵に描いたような環境の中で一生を終えたいとのことだった。
 古村先生に熱をあげていた同じクラスの水上啓介は、高校を卒業したら先生を追いかけてロシアに行くと周りに吹聴していた。当時は「水上はやっぱりスゴイ奴だ」「これぞ純愛だね」「誰かが映画化すれば絶対にヒットする」などと絶賛を浴びていたが、中学を卒業してバラバラになると、誰もそんなことなど忘れてしまった。
 俺は中学校の同級生とは誰とも連絡をとっていなかったが、近所に仲の良かった鹿島善次郎が住んでおり、駅で何回か会ったのをきっかけに交流がまた復活した。中学卒業後30年ぶりにつるむようになった俺たちは主に水上啓介の話題をよく口にした。
「あいつは今頃ロシアで何をやってるんだろう」
「俺たちが日本の狭苦しい住宅事情と人間関係の面倒くさい会社組織の中でヒイコラ言っているのに、あいつは無駄にでかい家に住みながら優雅に庭いじりでもしているんじゃないか」
「なあ。今度みんなでロシアに行ってみないか」鹿島はそんな提案をすることもあったが、家族も仕事もある自分たちには無理なことはわかっていた。そんな無責任に、勢いだけで遠くへ行く時代はもうとっくに終わっている。


 ある金曜日、鹿島から電話が鳴った。出てみると、「同じクラスの星川健信に偶然会ったからおまえも飲みに来い」と言う。このところ飲み歩いてばかりいるので家族には悪いなとも思いつつも、星川のことは嫌いではなかったので、二つ返事で行くことにした。
 そしてここでも話題は水上だった。「愛を追いかけて日本を捨てた尊敬すべき男」との勝手なイメージが自分たちの中ではちきれんほどに膨らんでしまい、誰もがまるで自分の失ってしまった人生がそこにあるかのような気分になっていた。
 そんな気分を抑えきれなくなったのか、星川がある提案をした。「こうなったら我慢ならねえ。あいつが今何をやっているか、どんな暮らしをしているか気にならないか? 俺はなるよ。めちゃめちゃ知りたいよ。メールでも何でもいいから連絡先を聞いてコンタクトを取ろうじゃないか。俺、あいつの実家の電話番号は覚えているからさ。今電話してみるよ」
 そう言って星川は携帯から水上の家に電話をかけた。酒で赤くなった頬がさらに興奮して赤くなっている。
 電話はすぐに出たらしく、星川が丁寧に名を名乗る。「あ、私小金井二中で水上くんと同じクラスだった星川と申しますが、水上君のロシアの連絡先を教えていただけますか…」
 しかし、母親と思われる電話の相手が話したのは意外な事実だった。
「今、仕事に出てますって言うんだよ」電話を切った星川が言う。
「もしかしたら失恋して戻ってきたのかもな」鹿島が言う。
「さすがにあれから30年も経ってるもんな。いろいろあったんだよ、きっと」と俺。
水上の両親からは携帯の番号を聞いていたので、思い切ってその場でかけてみることになった。すると、水上はすぐ近くにいるというので今すぐ来るという。3人は興奮した。
水上はすぐにやってきた。昔からすると、頭髪は減り、頬はこけた気もするが、まぎれもなく水上だ。
 単刀直入に鹿島が聞いた。「いろいろ聞きたいことはあるけどよ。ロシアはどうだったんだよ、ロシアは」
 すると、水上はこう答えた。「まだ行けてないんだよね。今いろいろと調べているところ」
「まだっておまえ…。あれから何年経ってると思ってるんだよ。30年だぞ?」星川が口を挟む。
「そうなんだけどさ。いろいろ調べることが多いんだよ。ロシアは寒いみたいだからそれなりの防寒具を揃えないといけないし、ロシア語って英語みたいに単純じゃないみたいだからさ。だってさ、名詞に男性とか女性とかあるっていうんだぜ。そんなの日本語の常識から言ったら考えられないじゃないか」
「そんなこと言ってるうちに、人生終わっちゃうぞ」俺のこの痛烈な皮肉にも水上は動じることはない。
「わかってるって。来年! 来年には行くようにするよ。いま取り掛かっている仕事が終われば、少しは状況が落ち着くんだ」
「でさあ。おまえ、古村先生のことはまだ好きなのか」鹿島が、もうひとつ俺たちが聞きたかった“変わらぬ永遠の愛”についても尋ねる。
「そりゃ好きだよ。だからこうして俺は独身を貫いてるんだろ」水上の自信満々の答えに、そこにいる誰もが呆然とした。
「先生とは連絡をとっているのか」と鹿島。
「いや、全然」と水上。
「だってもう、先生はゆうに50歳は越えてるだろ。誰かロシア人と結婚してるんじゃないか」と星川。
「あ、そうか。もうそんなになるか。いやー、時間が過ぎるのは早いねー」と水上。
 その後、3人は水上のあまりののんびり屋さんぶりにあきれながらも、彼のロシアについての浅いウンチク話をさんざん聞かされ、最後は近くの本屋で「地球の歩き方」のロシア編を買ってやった。
「これで必ず来年行けよ。いいから俺たちがまだ元気なうちに行って、それでロシアの話を聞かせてくれよ」
 そう鹿島が念を押したが、真剣な顔で「サンキューサンキュー」と言いながら笑っている水上を見ていると、もうこの男はロシアへ行くことはないのだろうと漠然と思った。