昆虫学者と武蔵くん

「虫のこと好きじゃないのに昆虫学者やってるんじゃねえよ!」
 武蔵くんの手にあったコップ酒が私の頬に引っかけられた。私はカウンターの上にあるおしぼりを広げ、ぬるくなった熱燗のしずくを拭いた。
 私が黙って何を言わないのを見て、武蔵くんはさらに言葉を浴びせてくる。
「俺はな、小さい頃から虫が大好きだった。ゴキブリだってミミズだってダニだって何でもだよ。高校卒業するまで自分は虫と結婚するものだと思ってたんだ。あんたの本は全部読んだよ。この人はすごい! なんて虫のことをよく知っているんだろう! と思って、わざわざ会いに長崎から東京まで来たんじゃないか。それなのに、実物のあんたはどうだ。虫のことなんてまるで興味がないと言った顔で、音楽とか映画の話ばかりしてさ。さっきはそこのテーブルの上を這っていたゴキブリの赤ん坊を指で潰して殺したのを俺は見てたんだ。そんな昆虫学者がいるかい? ええ? 昆虫学者って言うのは四六時中、虫のことを考えているべきだ。少なくとも俺がそうだ。俺は別に学歴も何もないから学者にはなれないけどさ、虫を好きでいる気持ちはおまえになんか負けないよ。おい、なんとか言えよ。なんとか言ってくれったらよー」
 武蔵くんはグラスの底をガツガツとカウンターの角にぶつけて泣き出した。それをマスターは心配そうな顔で眺めている。
 私に虫が好きな時期などあっただろうか。いや、武蔵くんぐらいの年齢の頃には私も朝から晩まで虫のことを考えていたこともあった。しかし、今はどうだ。虫のことを語ったり調べたりするのは、仕事としてだけで、興味があるかと問われたら自信がない。そんな人間が昆虫学者だなんて、武蔵くんのような昆虫狂からしたら冒涜以外の何物でもないだろう。前回論文を書いたのはいつだったろう。今やもう、家族を食べさせるためだけに、古臭い知識をたまに講演などで披露しているにすぎない。
「武蔵くん、私が悪かった。虫が好きでないのは認めるよ。私は今、虫でご飯を食べている。でもな、好きでいることを仕事にするのは辛いものなのだよ。私はあまりに長い間、親密に虫と付き合いすぎてしまったんだな。今はもう、虫を見るのも嫌なんだ」
 武蔵くんは涙を眼に溜めながら、私のことを怒りに満ちた視線でにらみつけている。
 私は続ける。「でもな、これだけは言える。私は虫が嫌いだが、この仕事を今すぐ辞める気はないよ。今年でもう63歳になるが、この年で他の仕事に転職するのは無理だし、リスクが高すぎる。私には娘が3人いるんだ。君の怒りもよくわかるが、せめて一番下の娘が大学を卒業するまで待っていてくれないか。そしたら、昆虫学者の肩書きも捨てるかもしれない。約束はできないが、検討していきたいと思っている」
「約束しろ」武蔵くんは振り絞るような声で言った。「今すぐここで約束しろ。そして、全ての虫に謝れ! 私は虫の理解者であるように振る舞いながら、大量に虐殺してきましたってな! 飯の種としてしか考えていませんってな!」
 武蔵くんの怒りに負けて、私は約束した。「わかった。君がそこまで言うなら約束しよう。ここにいるマスターが証人だ」
 武蔵くんはマスターを見た。マスターは表情ひとつ動かさず、グラスを拭きながら軽くうなずいた。
 これに安心したのか、武蔵くんはオオツルハマダラカの生態について嬉しそうに語った後、カウンターに突っ伏して寝てしまった。
 私は携帯電話を取り出し、妻に電話した。一番下の娘である芳乃が大学を卒業したら昆虫学者の職を辞することを伝えると、意外なことに妻は賛成してくれた。
「よかったわ。私はしばらく前からわかってましたよ。あなたがもう虫のことを好きじゃないってことは。だってあなた、虫の映像がテレビに出るとすぐにチャンネルを回したがっていたじゃない。無意識だったから気付かなかったんでしょうけど。それを見て私は、ああこの人は、きっと家族のためだけに学者やってるんだろうなって思って辛かったのよ。別に収入がなくなってもいいわよ。蓄えだって、夫婦2人が暮らしていけるくらいはあるんだし。のんびりパートでもしながら暮らしましょうよ。今回の決断は武蔵くんに感謝しないとね」
 電話を切った後、私は武蔵くんの寝顔を見た。武蔵くんは寝言でも、「トゲマダラカゲロウが…」などと言っていた。私は自分のやってきたことの虚しさを急激に感じていた。辞めるまでにはあと何年かあるが、その前にこの男を一人前の昆虫学者に育ててから辞めよう。