じゃじゃ耳ならし

 知り合いにチケットが余ったからと連れられて、とある小劇場で『じゃじゃ馬ならし』というタイトルの演劇を観劇してきた。そこの劇団の役者たちはどこかの事務所の新人さんたちを集めただけなのか、演技力が今ひとつ乏しく、全体的には満足することはできなかった。ただし、主人公であるカタリーナ・ミノーラの激しい気性には深く感銘を受けた。 
 私は今、仕事に忙殺されるだけの毎日を過ごしている。18歳くらいの頃には、プロのスキーヤーになりたいという夢を叶えるためにスキー雑誌や書籍を毎日熟読していたというのに、いつのまにかそれもしなくなってしまった。日々の楽しみと言えば、漫画雑誌を読むことと、深夜のお笑い番組を観ながら眠りにつくことくらいだ。カタリーナ・ミノーラの生き方を観て、私は深い反省を促された。
 しかし、今の私が情熱を注げるものは何であろう。そう思うと何もない。スキーはさすがに40歳を過ぎた今は体が動かないし、3年前に離婚してからと言うもの、異性に対する興味と言ったものはすっかり失われてしまった。
 この年齢の男が情熱を注げるものは何か。そう考えた時に浮かんだのが、音楽だった。
 私の趣味は少ない。就職活動の時もスキーの話だけで乗り切った。しかしながら、ひとつだけ私の過去に光る思い出があったことを忘れていた。それが音楽だ。私は高校の頃にバンドに誘われてヴォーカルをやった。この時の思い出は今でも鮮明に覚えている。曲目は…忘れてしまったが、RCサクセションとチューリップの曲をやった気がする。
 そこまで思い出して、私はある決意をした。音楽を聴こう。音楽を聴くのだ。
 私は独身で収入も悪くないため、貯金はうなるようにある。この金を片っ端からCDに注ぐのだ。そう決めたら私は生まれて初めてタワーレコードなるレコード店に入り、「ここの棚からここの棚まで全部ください」と言って店員を仰天させ、3000枚ものCDを大人買いした。しかしそれでもうなるような貯金には痛くもかゆくもなかった。
 私はそれらのCDを聴くことを日課とした。文字通り朝から晩まで。会社のPCにもアイチューンなるものをダウンロードし、仕事をしながら音楽を聴き漁った。すると、今まで話をしたこともなかった若い社員から「CDを貸してくれ」と言われるようになり、彼らの会話の内容が手に取るようにわかり始めた。私の脳みそはまるで10代のように活性化していた。


 ある日、給湯室でお茶を汲んでいると、ある若い社員同士の会話が聞こえた。どうやら私のことを話しているらしい。
「部長、ものすごい音楽たくさん聴くよな」
「ああ、こないだなんか、買ってきたCDを見せてもらったら、ドビュッシー新沼謙治とイラケレとモーモールルギャバンとかだったぜ。むちゃくちゃなチョイスだよな」
「すごいな。耳が聴きたくて聴きたくて仕方ないんだろうな。じゃじゃ耳だ」
「じゃじゃ耳か。それいいや。部長の耳はじゃじゃ耳だ」
「おい。あんまり大きな声で言うと怒られるぞ」
 若い社員たちの会話を聞きながら、私は涙が出そうになるのを必死でこらえていた。じゃじゃ耳、じゃじゃ耳。何度唱えても美しい響きである。じゃじゃ馬の「馬」よりかは頼りないものの、これで少しでもカタリーナ・ミノーラに近づくことができたのだと思い、小さくガッツポーズをした。
 私はその後も年間1万枚のペースでCDを聴き続けた。貯金はだいぶ減ってしまったが、今は自分のじゃじゃ耳をドウドウとならすことがとても楽しい。