胃液の海

「ほかの男と関係し、俺に聞かせてくれ。そうすることで、俺は生きられる」
――――――――――――――――――――映画『奇跡の海』より




 黄濁した海にドブドブと飛び込む人々の姿を横目で見ながら、シンペイは3年前に友達のワトソンが言ってた言葉を思い出していた。
 ワトソンはその当時、ハーフのタレントとしてテレビに出ていて、バラエティ番組のレギュラーをいくつか持っていた。その番組の中でのことだった。
 ワトソンはもともと、台本にない辛口のアドリブを連発することで人気を得ていたので、この時も視聴者は笑いながら観ていた。しかし、彼は突然、おかしなことを言い出したのだ。
「僕は予言します。現代人はストレスに侵されすぎています。このままでは食糧の量に対して胃液が過多になってしまう。そうすると、地球は胃液の海に沈むでしょう」
 この時たまたま放送をテレビで観ていたシンペイは、何を言っているんだとあきれた。番組に同席していた年配のお笑い芸人たちも、「またワトソンがバカなことを言いだした」と言って誰も取り合わなかった。
 しかし、ワトソンの予言は当たっていた。あまりのストレスの多さに胃液が増えすぎた人間は、毎日胃液を何リットルも吐き出すようになった。最初は胃液用トイレが各家庭に配られたが、政府が予測する以上の量にまるで用をなさなくなり、人々は無許可の胃液を山や川や路上に吐きまくった。次第に地球は黄色く染まっていき、どこの国へ行っても酸っぱい匂いがするようになった。宇宙飛行士の墨田さんは、「地球は黄色かった。そして、宇宙でも胃液の匂いがします」という名言を吐き、時の人となった。
 焦った国連は胃液を減らすための対策や運動を行ったが、時すでに遅しだった。降雨量よりも勝る勢いで胃液は増えていき、それまで青く美しかった海は完全に黄色く染まった。
 つまり、その時すでに人間のストレスは頂点に達していたのだ。苦しんだ人々は胃液の海に飛び込み始めた。胃液の海に飛び込むと骨から肉まで全身が溶けてしまうため、遺体があがってこない。そのため、遺体を見られたくない若い女性に人気を集め、マスコミがブームを作り上げて煽った。
 シンペイはそんな風に命を粗末にする人々を鼻で笑っていたが、昨年は本当にひどい年で、そうも言ってられなくなった。仕事をクビになり、恋人にフラれ、ストレスで突発性難聴にもなった。年末は住む場所もなく、公園のトイレを転々としたものだ。
 暦は2010年になったが、もはやシンペイには新しい年を生き抜く気力はもうなかった。シンペイの足は自宅から近場のある海岸へと向かっていた。ここは飛び込みの名所として毎日700人が飛び込むという。シンペイの両親もここから飛び込み、帰ってこなかった。
 そして今、シンペイは海を眺めている。隣で先ほど挨拶をした近所の夫婦も飛び込み、仲のよさそうなクラス全員で飛び込む小学生たちもいた。
 シンペイは何度か躊躇したが、ある考えが頭に浮かぶと全く恐怖がなくなった。そうだ、胃液の海に飛び込むということは地球に食われることじゃないか。そう考えたらシンペイはこれは自分の命を落とすことではなく、地球と同化することなんだと思うようになった。
 もう何も怖くない。シンペイは後ろを振り返り、笑顔で見知らぬ人々に挨拶をした。「みんなでひとつになろう!」オーという掛け声が聞こえ、シンペイは再び海に向かった。そして黄色い海の中に飛び込んだ。次第に皮膚が溶け、肉が溶け、骨が溶け、最後に髪の毛が溶けた。シンペイはあまりの気持ちよさにガッツポーズをしようとしたが、手はもうそこにはなかった。自分の体が地球とひとつとなる。地球の餌になり、血となり肉となることがうれしかった。体が消えて無くなった後も、シンペイのそのうれしい思いは海の中にしっかりと浮かんでいた。