どっちのジョン・レノン

 満員の通勤電車に、オレンジ鉄鋼入社2年目の牧田と後藤は乗っていた。2人は沿線が同じだったから、よくこうして一緒の電車に乗り合わせる。牧田は後藤に言った。「昨日さ、夜おもしろい映画がやっててさ。ついつい最後まで見ちゃったよ。終わったのが3時半だったから、マジ寝不足でさ」
「へえー。そりゃつらいね。でも、俺も5時間しか寝てないんだよな。あー眠い」
「すげえおもしろい映画だったぜ」
「ふーん、何の映画? エッチなの?」
「違うよ、バカ。俺だってたまには普通の映画くらい見るさ。えーと、タイトル忘れちゃったけどさ、『チャプターなんとか』って映画でさ。ジョン・レノンを殺した男を描いてるんだよ」
「へえー。どっちのジョン・レノン?」
「え?」2人の会話を何気なく聞いていた他の乗客も、牧田と同じように疑問に思ったようだ。空気の流れが一瞬止まるのがわかった。
「だから、どっちのジョン・レノンだよ」混んでいることに苛立っているのか、後藤の声のトーンが若干上がる。
「どっちって。俺の知っているジョン・レノンは1人しかいないけど、おまえは他にいるのか?」
「いるよ。俺の友達の友達がイギリスから留学してきて浦和に住んでるんだけど、そいつがジョン・レノンって名前なんだって」
「ほう。それは珍しいな」
「そいつ、携帯でメール打つのすっげえ早いらしいよ」
「まだ生きてるのか?」
「わからない。今おまえが殺されたって言ってたから、そいつがてっきり殺されたのかなと思って」
「でも、その浦和のジョン・レノンさんは別に有名じゃないんだろ。そしたら殺されても映画にならないんじゃないのか」
「いやいや、今は何でも映画になるご時勢だろ。ドキュメンタリーとかさ。だから、そのジョン・レノンが映画になったっておかしくないよ」
 そんなチグハグな会話を聞いてたまりかねたのか、初老の業界風の男が2人に声をかけてきた。「なあ、ちょっといいか。君たちの会話は少しズレているんじゃないか」
「そうかもしれないですね」牧田が答えた。
「入社の頃から合わないよな。一緒にランチに行くと、いつも違うの頼むし」後藤が笑って答えた。
「わしはジョン・レノンの大ファンなのじゃが、今の会話で幻滅したよ。そんなのじゃ、ジョン・レノンが泣いてるぞ。彼は日本に縁があるのだから、君たちももっと彼のことを知らないといかん。彼が結婚したのが誰か知ってるか」業界男がじりじりと2人に近寄り、OLの頭越しに話す。
 牧田が考えこんた。そして答える。「あ、日本人だって聞いたことあります。確か、モリ・トシコでしたっけ?」
オノ・ヨーコじゃよ。それは『チャプター27』でやってなかったか」業界男はそう言って笑った。
「ああーそうだった。オノだ。聞いたことあります」牧田が納得した顔を浮かべる。
しかし、後藤は2人の会話に乗れないのか、こう言った。
「だから、おまえらが話しるのって、どっちのジョン・レノンのことだよ?」
「うるせえな。どっちどっちって。さっき言っただろ。ビートルズのほうだよ」と牧田。
「あー、聞いたことあるよ。すっげえ昔のバンドだろ? 朝っぱらからそんな古い人間の話するなよ。なんか会社行く気なくした。サボってもいい?」後藤はそう言って、舌を出した。
「別に。降りれば」牧田は後藤の相手をする気をもはやなくしていた。そして後藤は自分の言葉通り、次の駅で「おつかれー」と言いながら降りて行った。
「追わないでいいのか」業界男が聞く。
「いいんですよ。どうせ漫画喫茶でも行くんでしょうから」
「そうか。じゃあ、わしとゆっくりジョン・レノンのことを話さないか」
「いいですね。話しましょう」
 こうして2人は喫茶店に入り、出社前にジョン・レノンについて小一時間ほど語り合った。