ミルク職人の性

 近所の角でミルク職人をやっている駒田徳雄は少し不気味な外見で、その町の有名人だった。ミルク職人と名乗ってはいるものの、実際にミルクを作っているところは誰も見たことがない。「ミルク職人 駒田」という看板だけは出ているが、従業員がいる様子もないし、ましてや牛の姿も見えない。この町の人々は、話題に困るとすぐにミルク職人の駒田のことを話しだすのだった。
 駒田は何十年も洗っていないようなボロを着て、白黒入り混じったヒゲも伸び放題と、小さな子供を持つ親だったら間違いなく手を引いて避けさせたくなるような容姿ではあったが、しかし愛想だけはよかった。町内会の催し物には率先して出席し、場を盛り上げたし、あまりに大きな声でハキハキと挨拶するものだから、初めて見た人は面食らった。そんな不器用な男だから、町内には駒田のことを嫌いな人間はいなかった。
 駒田の住む町は、邦陽町という小さな町だった。元々は人々が笑顔でのんびりと暮らす。とても住みやすい町だったが、最近の不況のあおりを受けたことで、少し状況が変わった。職にあぶれた人たちが増え、これまで20年も事件が起こらなかったにもかかわらず、引ったくりや万引きなどが多発した。鍵をかける習慣すらなかったのに、戸締りに用心するようになった。平和に慣れきっていた人々は、こんな状況にどうやって対処していいのかわからず怯えていた。しかし、そこに立ち上がったのがミルク職人の駒田だった。駒田は今まで、あくまでも盛り上げ役というスタンスでドンチャン騒ぎをする専門だったが、初めてこの時に仕切り役を買って出たのだ。
 駒田は市民ホールの会議室を予約し、そこで緊急会議を開いた。会議のタイトルは「この危機に」だった。人々は一体何が行われるのだろうと興味津々に思い、かつてないほどの人数が集まった。駒田はいつもの汚らしい服装だったが、どことなく雰囲気が違っているように人々には見えた。会議室の時計を見て開演時間になったことを確認した駒田は、満員になった人々に大声である提案をした。
「みなさん、本日はお集まりいただきありがとうございます。ご存知の通り、今、この町は危機に瀕しています。そこで僕はみなさんに初めて、僕の作ったミルクを飲んでほしい」
 そこまで話した時に会議室はざわめいた。駒田の作ったミルク? あいつは本当にミルクを作れるのか? などなど。そのざわめきも既に予想していたというような表情で、駒田は落ち着いて続けた。
「僕が今までミルクを作らなかった理由は、その必要がないからでした。いまや、世の中にはミルクが多すぎる。そして、その割には中身のあるミルクがありません。人類と言うものは、昔からミルクに助けられてきました。ミルクが人類を生み、ミルクが人類を育ててきました。いいですか。ミルクというのは、絶対に人類、いや哺乳類とは切っても切れない関係なのです。僕は、今までの日本は平和だったから、あんなに中身がスカスカなミルクでもなんとかなるだろうと思っていた。しかし、今こんな状況ではいけません。役不足です。僕のミルクでしか、世界を救うことはできないんです」
 最後のほうに、「世界」という単語が出てきたことで、煙に巻かれたような気持ちになるお父さんたちもいた。「チンプンカンプンやな」といった声も聞こえた。しかし、その多くは、熱い目をして駒田の言うことに耳を傾けていた。
「そうです。これがミルク職人の性なのです。ミルク職人は、こういった時に本領を発揮するということを私は今ここで証明したい。さっそく、何リットルかミルクを作ってきたので、誰か我こそは!と思う方は前に出てきて試飲してください。心配しなくても、1週間もすればみんなの手元に届くようにしますが、とにかく少しでも早く飲んでほしいのです」
 人々はその言葉に煽られ、壇上の駒田のもとに殺到した。「押すな! 押すなや!」という怒号が飛び交う中、駒田から手渡されたミルクを飲んだ人々は顔をしかめた。その味はとても不思議な味で、これまで誰もが飲んだミルクとは全く違うものだった。一度高揚した雰囲気は自然に落ち着きを取り戻し、飲んでない人が飲んだ人に感想を求めた。
「どうやった? 駒田のミルクどうやった?」
「うーん、すごくおかしな味がするミルクやな。でも、確かに濃いかもしれん」
「やっぱり、飲むと何かが変わる気がするか?」
「そうやな。なんだか身体に力がみなぎるような気持ちにはなるな」
「それにしても駒田さんは、どこからこのミルクを作ったんや? 牛はこの町にはいないやろう」
 そんなとき誰かが、駒田を胴上げしようと言い出した。駒田が宙に舞う際には、決して愉快とは言えない匂いが会議室中に漂ったが、人々はそんなことを我慢しながら、ワッショイワッショイと声をあげた。
 駒田は宙に浮かびながら、改めて気を引き締めた。そうだ。これでいい。これで自分がこの町に居続けた理由があったというものだ。駒田は早く家に帰り、もっともっと町の人たちに行き渡るほどの大量のミルクをこさえねばならぬと決意を新たにした。