南ニャフリカのあいつ

 2010年6月14日、遂にワールドカップの日本戦が始まった。相手はカメルーンだ。我が家ではピザとビールを買い込み、応援の準備は万全だった。
 前半が終了した時点で、スコアは0対0だった。
「日本はなかなかの健闘を見せているね」私は妻に話しかけた。 
 すると、妻は画面を凝視したまま黙っていた。
「どうしたんだい」不審に思った私は聞いた。日本が点を取れなかったことに怒っているのだろうか。
 妻は黙ったまま、画面を指差し、震えた声で言った。「こ、これ。もしかしたらラピュタじゃない?」
「え? 嘘だろ?」私が画面を見てみると、日本の応援席のはしっこに座っているそれは、確かにラピュタだった。1年前に失踪した我が家の飼い猫だった。

 ラピュタがうちに迷い込んできたのは、5年ほど前のことだった。我々夫婦は2人とも猫好きだったし、もしもこんなことがあろうかとペット可の物件に住んでいたので、この猫を飼うことにした。名前は妻がつけた。もちろんあのアニメのファンだったからだ。
 ラピュタは不思議な猫だった。普段は一日中でも寝ているのにもかかわらず、我々がサッカー中継を観ている時だけは起きてテレビの前に居座った。
「この猫、サッカーが好きなんじゃないか?」
「バカ言わないでよ。たまたまよ」
 そんな私がある日、会社から戻ってみると、驚きの場面に出くわした。テレビを消して外出したはずなのに、家の中のテレビがついて、ラピュタがサッカー中継を観ているのだ。妻が帰ってきたのはその少し後だったが、彼女はこの話を信用しようとはしなかった。この日がたまたま4月1日だったこともあり、「つくならもっとましな嘘をついてよね」と言って取り合わなかった。
 この事件以来、なんとなくラピュタの必死さが気味悪くなり、サッカー中継を観るのを避けるようになった。昔からサッカー小僧の私が野球ばかり観ているのを見て、妻は疑問に思ったようだ。
「どうして、サッカー観ないの? 野球は退屈だって、あれほど言ってたのに」
 私が野球ばかり観ていることで、ラピュタは荒れた。コーヒー豆を缶から床にぶちまけたかと思えば、その豆を念入りに踏み潰し、家中を真っ黒にした。私が野球を観ていると玄関に糞尿を垂れ流し、始末の追われる我々夫婦がテレビの前に戻ってみると、チャンネルがサッカーに変わっていることもあった。
「どうだ。これで信じただろ」妻に言っても、彼女は「あなたが回したんでしょ」と言って取り合わなかった。
 今思えば、あの時のラピュタには本当に悪い事をしたと思う。ラピュタの荒れようは止まらなくなり、遂には家を飛び出した。基本的には家猫だったので外出したがらなかったのだが、宅急便が来た時に足元をすり抜けて出ていってしまった。
 ラピュタの失踪を知った妻は三日三晩泣きはらした。私はラピュタの失踪の理由を知っていたから、罪悪感にかられていた。私が「サッカーのせいだ」と言うと、「ふざけるのはもうやめて! ラピュタはもういないのよ!」と言って妻は怒った。

 あれからもう1年。ラピュタはどうやってアフリカまで行ったのだろう。妻はこの時点でようやくラピュタがサッカー狂だったということを認識した。
「ごめんね。気付くのが遅すぎたね。私、にぶすぎるよね」そう言ってまた妻は泣いた。
「仕方ないよ。僕らがサッカーを見せ続けたとしても、結局彼は南アフリカまで行ったかもしれないし」
「それもそうね。でもよかった。こうやって無事な姿を見ることができて。野犬とか保健所の人間に襲われてたらどうしようかと思ってたんだから」

 結局、日本はカメルーン相手に1対0で勝利したが、私たちにとってはラピュタに会えた喜びのほうが大きかった。ラピュタはその後、オランダ戦にもデンマーク戦にもいた。どうやってチケットを取ったかわからないが、きっと猫は入場無料なのだろう。
 ワールドカップが終わった今も、私はこうして南アフリカに想いを馳せる。ラピュタはまだあの国にいるだろうか。きっと日本とは比べ物にならないほど自然が多いだろうから、暮しやすくて住み着いてしまったのかもしれない。ただ治安も悪いし、野生動物は強そうだから、なんとかして生き抜いていってほしいものだ。