ジェシーの水圧

 ジェシー・マコーガンが日本人の鹿島恭平と結婚したのは5年前のことだった。ジェシーが日本に留学している際に、恭平のやっている手品ショーを路上で見たのがきっかけだった。アメリカの田舎で育ったジェシーは手品というものを近くで見たことがなく、いっぺんに恋に落ちた。ジェシーは恭平の指先から放たれる魔法の数々に酔いしれ、彼のサポートを一生続けていくのだと意気込んでいた。
 そんなジェシーから佐山渚に電話があったのが昨日だった。渚は2人が離婚すると聞いて耳を疑った。渚は恭平の幼馴染で、恭平の長所も短所も知りぬいていた。恭平は決して女にモテるタイプではないため、浮気をしたとは考えにくい。ましてやジェシーに至っても、恭平以外の男に目移りするということは渚が考える限りありえなかった。
 ジェシーが渚に詳しい経緯を話したいということで、2人は松戸の駅前のスターバックスで待ち合わせをした。渚が店に着くと、ジェシーはすでに待っていた。2年ほど前にみんなでキャンプに行った時よりも、いくぶん老けて見えた。
「ひさしぶり」
「遅れてごめんね。待った?」
「ううん。私もさっき着いたばかり」
 ジェシーの日本語の上達ぶりの早さに渚は驚いた。2人は近況などを簡単に話し合った後、話はついに本題に突入した。
「離婚するんだね」
「うん、もう決めたの」
「理由は?」渚が単刀直入に聞いた。ジェシーはあまり回りくどい会話が好きでないのを渚は知っていた。「やっぱり文化の違いとか? 2人が浮気するとかは考えられないもんね」
 ジェシーは一瞬黙った後、言った。その答えは渚が全く予想していないものだった。
「水圧よ」
「す、水圧?」ジェシーは何のことを言っているのだろう。
「そう。私ね、水圧の調節が全然できないの。流しとかで食器を洗うでしょ。そうすると、ビジャビジャビジャーって水を出しちゃうから、そこら中が水びたしになるの。それを恭平は許せないみたいで」
「え? そんなことで? って、ごめん。ちょっと予想していない理由だったから」
 ジェシーは恥ずかしそうな表情を浮かべた。「そうだよね」
「でもさ、それなら水圧を調節すればいいじゃないの。恭平にも適度な水圧を教えてもらえば?」
「ダメなの。何度もやったけど、できないのよ。アメリカで暮らすうちのファミリーは全員水をドバーっと出すの。私たちアメリカ人は、あなた方みたいに手先が器用じゃないのよ。遠慮ができないのよ。そこのところ、どうしてわかってくれないの」
 ジェシーは泣き始め、渚が肩を叩いて慰めた。しかし、何度言ってもジェシーは言うことを聞かず、結局その後2人は離婚することになった。なんてバカな理由で…と他人は思ってしまうが、2人にとっては重要な問題なのだろう。渚も結婚して3年目を迎え、夫のがさつな振る舞いにだいぶ嫌気がさしていたが、少しは甘めに見てやろうと言う気にさせられた。