オーストラリア人、月に行く

 タクシーに乗ったら、運転手が北島三郎だった。そんな夢を何度も見る。
 思い悩んだ畠中ゼンジは母親に相談した。
「ねえ、お母さん。今ちょっといいかな」
 しかし、母親は洗濯に夢中のようで、「これ全然汚れが落ちてねー!」とか、「つーか、赤Tと白T一緒に洗ったら、白Tがピンクになってるし!」などと言ってはしゃいでいる。ゼンジは母親のこういう子供っぽいところが決して嫌いではなかった。自分が同世代の中では比較的大人びていると言われるだけに、いつも恋をする相手は母親のような無邪気な女性だった。
 母親は何かに夢中になって騒いでいる時に話しかけられると、怒って物を投げてくるくせがあるので、ゼンジはほとぼりが冷めるのを待った。洗濯機の置いてある洗面所から出たところで、うつらうつらと居眠りをしていると、母親に起こされた。
「なんでこんなところで寝てんのよ。あんた、勉強するとか言って、部屋でマンガ読んでるんじゃないの。ぶわはははは!」
 ゼンジの寝起きの頭には、母親のジョークはより鋭く響いた。
「違うんだ。お母さん。ちょっと話があるんだけど、いいかな?」
 ゼンジの改まった表情を見て、母親は全てを了解したようだった。エプロンをクシャクシャに丸めて後ろに放り投げ、ブルゾンを羽織ると言った。
「あんたのそんなに思いつめた表情、久しぶりに見たわ。いいわよ。そんな改まった話だったら、家じゃなくてガストに行きましょう」

 ゼンジは母親がこぐ自転車の後ろに乗ってガストへと向かった。ゼンジは今年で大学生になるんだから、自分は走っていくと言い張ったが、母親は譲らなかった。途中、警察官に怒鳴られたが、母親が「うるっせえ!」と恫喝したら尻尾を巻いて去って行った。
 ガストで2人は揃ってフライドポテトを注文した。ゼンジはフライドポテトが2皿じゃ喉が渇くと反対して別のものに注文を変えようとしたが、「男が一度言ったことを変えるもんじゃない」と怒られたため、あきらめて予定通りフライドポテトにした。注文を取りに来ていたウエイトレスが隣のクラスの女子だったので、ゼンジは恥ずかしかった。明日から、あいつは重度のマザコンだという噂が広まるに違いない。
「で、話って何よ」母親が仁丹を口の中に頬張りながら言い、ゼンジは自分が見る夢の話をした。
「第一、僕は北島三郎の音楽なんて聴いたこともないし、テレビで歌っているところも見たことがない。少し顔を認識しているだけだよ。それなのに、なぜ北島三郎なんだ」
「よくわかったわ」母親はさらに大量の仁丹を口の中に入れた。「あなたの夢の中の三郎は歌ってるの? それとも、ただ話しかけてくるの?」
「両方だよ。話しかけてくる時はたいてい、一緒にこのまま車に乗って見知らぬ土地に行こうって誘ってくるし、歌う時は英語の歌を歌うんだ。オーストラリア人が月に行くとか、そういう内容だったと思う」
「それ本当? 北島三郎って言ったら演歌よ。英語の歌なんて歌うわけないんじゃない。それ、きっとあんたの勘違いじゃないの」
「いや。違う、絶対違う。僕が何回同じ夢を見たと思っているんだ。これは確かなんだ。信じてくれ、母さん」
 そこまでゼンジが言うと、母親は少しの沈黙のあと言った。「確かにあの人の言いそうなことだわ」
 ゼンジはその母親の言い回しにただならぬものを感じた。「何、あの人って。母さん、北島三郎と知り合いなの?」
「そうね。あなたにも話さないといけない時が来たようね」

 母がゼンジに語った内容はこうだった。ただ、昔、母が結婚する前の頃、路上で紙芝居を披露する男がいた。その内容はとても変だった。北島三郎のことをバッシングするものばかりで、母は子供ながらに不快な想いをした。
 その男がなぜ三郎をそこまで嫌うかというと、彼と北島三郎と同級生だったが、ささいなことをきっかけに北島三郎と喧嘩をしてしまった。それ以来、北島三郎のことを恨み続け、こうして紙芝居をしながら全国行脚の旅をしているという。
 母はそんな経緯を聞いて我慢ならなかった。大人がそんな卑怯なマネをしていいものだろうか。正義感のかたまりだった母は、北島三郎の事務所に電話をかけ、紙芝居男のことを“密告”した。しかし、三郎本人はその男のことを知っているというではないか。三郎は男が自分の悪口を言って回っているということを知っていながらも、全く意に介さなかった。昔の喧嘩のことは三郎も覚えているし、あの時悪かったのは自分だから、そこまで言われても仕方ない。そう説明する三郎を母は男だと思った。
 母は三郎の事務所に招待された。小学生なのに、密告しようとする勇気を称えてのことだった。事務所のスタッフから出されたデリバリーの寿司を食べながら、母は三郎が現れるのを待った。そして、ついに三郎が登場した。三郎はなぜかタクシーの運転手の格好をしていた。何やら三郎は舞台の帰りで、母にお礼を言いたいがためだけに、着替える暇も惜しんで事務所に駆けつけたというのだ。母は感動した。ちなみに舞台はタクシーの運転手が演歌に目覚め、レコードデビューをするというサクセスストーリーだった。
 三郎は母に言った。「一緒にこのまま見知らぬ土地に行かないかい?」
 母は驚いた。こんな初対面の、しかも小学生の自分にそんな言葉を吐くなんて。実際に行ったら誘拐じゃないか。戸惑った母が黙っているのを見て、三郎は釈明した。
「お嬢ちゃん、これね。舞台の中のセリフなんだよ。お嬢ちゃんが笑うかなと思って言ったんだけど、セリフがちょっと過激だったね。ごめんね」母はそれを聞いて、少し安心した。
 三郎からは手厚いもてなしを受けた。そして、何かほしいものはないか?と聞かれた母は、「演歌が聞きたい」と言った。実は北島三郎の事務所に行くと行った時に、母の両親は「ぜひ演歌を生で聞いてこい」と言うミッションを課していたのだ。母はここがそのチャンスだ!と思って、喜んでお願いした。
 しかし、意外なことに三郎は首を縦に振らなかった。「ごめんな。お嬢ちゃん。演歌は仕事だから歌いたくないんだ。俺、本当はプライベートではアメリカンポップスのファンでさ。自分で英語で曲を作ってるんだよ。だから、この歌をプレゼントするよ」
 母には英語の曲の内容はさっぱりわからなかったが、ムーンという単語とオーストラリア人という単語だけは判別できた。そこでオーストラリア人が月に行くというストーリーを後付けで考えたというわけだ。

「わかった? そういうことよ」母の仁丹はもう空だった。「多分、私の中のDNAにあの時の記憶が残っていたので、それがお腹の中にいるあなたに伝染したんじゃないの」
 ゼンジは感動していた。人間ってのはなんてすごいんだ。そして、北島三郎というのは、なんてナイスガイなんだ。
 ゼンジはその晩、再び北島三郎が運転するタクシーに乗った夢を見た。ゼンジは三郎に言った。
「お母さんがその節はお世話になりました」
 すると、三郎は恥ずかしそうに前を向いて、ぶっきらぼうに片手を挙げて言った。「おうよ。いいってことよ」その日以来、夢の中でゼンジと三郎は友達になった。