サンクション!

「サンクション!」
 朝の通学電車の中でその破裂音を聞いた受験生の鈴木平治は「認める、認可」などと頭の中でつぶやいた。sanction。平治の頭は今、英単語が何千個も詰まっている。それこそ、今流行りのアイドルの名前なんか覚える余地がないほどに。
 しかし、このクシャミの音を聞いた平は、ある異変に気付いた。クシャミをした女性の口から、何やら虫のような物体が飛び出たからだ。他の乗客はおろか、女性本人も気付いていない様子だった。平治は参考書も頭に入らず、あの虫は何だろうということが気になりだした。
 クシャミをした人物はいつも同じ車両に乗ってくる女性で、体が弱いのか、いつも鼻をグスグス言わせていた。平治は毎回彼女のクシャミの音を聞き分けているわけではないが、いつもは確か普通に「ハクション!」という音だったはずだ。
 それが今は「サンクション!」だった。きっとクシャミを発する瞬間に何かが前歯に引っかかってしまったのだろう。その引っかかったものこそが、あの虫のような物体に違いない。
 平治は女性が降りた後、こっそりと物体に近づいていった。他の乗客にあやしまれないようにしながらその物体を手に取る。すると、そこには見たこともない12本足の生き物がうごめいていた。平治は思わず悲鳴をあげそうになるのを我慢して、飲み終わった生茶のペットボトルの中にその虫を入れた。密封してしまうと死んでしまうだろうから、学校バッジの安全ピンで小さな穴を開けた。
 平治はその虫をどうしていいものか迷ったが、翌日、女性に返すことにした。きっと、これだけ珍しい形の虫だから、本人も探しているに違いない。あれはきっと人に見つからないように、口の中に入れて運んでいたのかもしれないのだ。
 
 翌日、少し緊張した面持ちで、平治は女性と同じ駅で降り、女性のあとをつけていった。女性が建物に入る前に、後ろから声をかけた。
「あのう、すみません。この虫、あなたのではないですか」
 女性は顔を赤らめて言った。「チェルシー、こんなところにいたのね」
チェルシーって言うんですか。とても不思議な形をしている。どこで手に入れたのですか」
「これはね、私が昔、頭の中で想像していた虫なのよ。それがいつしか、口の中で育つようになったの」
「へえ、そういう話は初めて聞きました。きっと驚いたことでしょう」
「そうね。驚いたわ。だって、口の中がモゴモゴするから、こっそりペッと出したら、そこに虫がいるんですもの。でもね、私はこの子の形を昔から自分の絵で見慣れてたから、何も驚かなかった。けれど、他の人には見せられないわ」
「ちょっと気持ち悪い形してますもんね」
「でしょ。うふふ、あなたって、遠慮のない言い方するのね」
「すみません」
「謝ることはないわ。私は正直な人は好きよ。それより、あなた虫は嫌いなの?」
「好きでも嫌いでもないです」
「でも男の子なんだから、デジモンとかムシキングとか興味あるでしょう。自分のオリジナルの昆虫とか紙に書いたことあるでしょう」
 平治は昔の記憶をたどった。すると、確かに昔はよく書いたものだ。「そう言えば、書きましたね」
「でしょ。じゃあ、その虫の絵を毎日書きなさい。そしたら、いつかあなたが新しい虫をこの世に生み出すことができるわよ」
「わかりました。やってみますね」
 平治は礼を言い、女性にチェルシーを返却した。女性はウインクをして、口の中にチェルシーを再び放り込み、つかつかと去っていった。

 それから平治は受験の合間の気分転換に、いつも決まった虫の絵を画用紙に描き続けた。例の女性とは毎日顔を合わせていたが、なんとなく恥ずかしくなって軽く会釈をする程度にとどまった。しかし、ある日の朝、平治の口の中がやけにモゴモゴしてきた。何だろう、昨日の夜に食べた魚の骨が歯の間に眠っていたのだろうか。平治はその押し寄せる異物感に耐えられなくなり、思わず大きな声でクシャミをしてしまった。
「サンクション!」
 すると、その先には平治がいつも画用紙に描いていた、見慣れたデザインの虫が暴れていた。それを見た女性が平治にウインクを投げかけた。