におい警察

「あ、牛込さん、来たよ」
 社員の誰かがこう言うと、牛込博和の周りにいる人間はみんな誰もが一目散に逃げていった。どうしてもその場から離れられない者は下を向き、牛込が何事もなく通り過ぎることを願った。
 牛込はそのようにして避けられていることを知っていた。しかし、こればかりはどうしようもないのだ。

 牛込が役員会議に呼ばれたのは1年前のことだった。それまで全く仕事ができずに、給料泥棒と陰口をたたかれるほどのダメ社員だった牛込が役員なんかと縁があるわけがない。同僚からは「おまえ、ついにクビになるんじゃねえの」と言われた。牛込もいい知らせのわけがないと思い、田舎に帰る覚悟をしながら会議室のドアを叩いた。
 会議室には見たこともないような貫禄のある人間が6人ほど座っていた。テレビで見たことがある社長の姿もいる。牛込は緊張のあまり目まいがしたが、椅子をすすめられておずおずと座った。
「君が牛込くんかね」社長の隣に座っている男が言った。「私は亀有と言います。よろしく」
「あ、よろしくお願いします」牛込の声は裏返ったが、誰も笑うものはいなかった。
「単刀直入に言うが」亀有がドスのきいた声で続ける。「君はすごく鼻がいいらしいな」
 牛込はいきなり予想もしていなかったことを言って戸惑った。鼻? 何を言っていいかわからず、とりあえず「はい」と答えた。
 すると、亀有は周りにいる5人を見渡した。5人は目で了承した、というような表情をした。
「じゃあ、君にやってもらいたいことがある。我が社のにおい警察になってくれないか」
「におい警察?」
「そうだ。我が社の風紀は最近乱れておる。そのため、君の鼻のよさを生かして、社員の行動を逐一報告してくれないか。プライベートの透明性に貢献してほしいんだ」
 このような雰囲気で牛込は断ることなどできなかった。この瞬間から牛込は、台東商事のにおい警察に任命された。
 

 牛込は子供の頃から鼻がよく、犬にも負けないほどだった。ある日こんなエピソードがあった。近所の林に麻薬の運び屋が潜入していた時があって、麻薬捜査犬が派遣されてきた。捜査犬は犯人を見つけるのに苦労していたが、牛込はふとおかしな匂いがするのに気付き、犯人を見つけてしまった。捜査犬はその時とても悔しそうな顔をしていた。
 それほどの能力の持ち主であるため、会社の役員の要求に応えるのは朝飯前だった。たとえば、前日に酒を飲んできた者はもちろん、何を食べてきたかも当てることができた。また、外泊してきた者はいくら洋服を着替えても牛込の鼻をごまかすことはできなかった。誰と誰が恋愛関係にあるという事実もすぐにわかった。
 牛込のこの報告に役員連中は深く満足した。におい警察に怯える社員たちの風紀は次第によくなり、仕事の能率が上がった。もちろん業績もアップした。
 最初はすずめの涙ほどだった牛込の給料もグングン上昇していき、今ではプリウスを現金で買えるほどの年収を稼ぎだすようになった。まさに牛込は鼻で財を成し遂げたのだ。
 しかし、におい警察になった牛込を社員の誰もが避けた。彼が通るとあからさまに嫌な顔をしたし、一緒に飲みにいこうとする者もいなかった。牛込は寂しい思いをすることもあったが、満足な給料をもらっているし、何よりも自分にしかできない仕事をやっているという自負があったからやってられた。
 だが、不幸は牛込の知らないところで進行していた。社員だけではなく、実は役員の中にも牛込のことをよく思わない人間がいた。その代表は時期社長候補の1人を言われる越谷源八郎という男で、彼の信条は遊びも仕事も両立させることだった。彼は管理社会を嫌い、社員ひとりひとりが伸び伸びと働く環境を望んでいたのだ。
 牛込がにおい警察に任命された時は越谷にまだそこまでの力はなかったが、この1年でメキメキと社員からの人望を集めていき、遂には現在の社長がストーカーメールで逮捕されたことをきっかけに、社長になったのだ。
 越谷の第一の仕事は、まず牛込をクビにすることだった。牛込がいることで業績は上がったが、社内の雰囲気は最悪なものになった。そう越谷は考えていた。越谷が社長就任演説で、牛込の解雇を伝えると、社員勢からは大歓声が起こった。
「もう匂いでビクビクすることはやめるんだ。自由な匂いをかもし出せる社内をめざそう。ニンニクだって食べていいし、酒だって飲んでいい。異性とだって、トラブルを生まない程度にどんどん遊びたまえ!」
 
 こうして牛込は解雇され、職を失った。牛込は、におい警察が前職だったことを武器に再就職を狙ったが、どこの会社の人間もやましいことがあるのは変わらないようで、採用しようとはしなかった。牛込は悩み、一時は鼻の粘膜を焼ききろうかと思ったくらいだ。
 だが、そんな牛込に手を差し伸べてきた企業がひとつだけあった。それは消臭剤を専門に作っている薬品会社で、ぜひとも牛込の能力を借りて、完璧な消臭をめざしたいとのことだった。牛込は喜んでこの話に飛びつき、唯一無二の才能を武器に、またもや出世した。牛込は鼻の粘膜を焼ききらなくてよかったと思った。しかし、仕事以外では鼻に栓をするようにした。社員たちの匂いを嗅ぐと嫌われるから、それはもうやめようと思ったのだ。