その怪獣の名はダリー

 ふう。今日はこのくらいにして、続きは明日にしよう。佐江子はそう思い、35ページで読んでいた本を閉じた。本の表紙には、『全ウルトラ怪獣完全超百科―決定版』と書いてある。
 佐江子は3日3晩、同僚の桃谷敏弘の家に泊まりこみ、こうして敏弘の本棚にある本を片っ端から暗記していた。敏弘が出張から帰ってくるのは明後日だ。それまで、ゆっくりカフェオレでも飲みながら怪獣の名前を覚えるとしよう。グドンドドンゴギエロン星獣…。ふふふ、なんだかどれも食べ物みたいな名前ばかりね。そう考えていたら、佐江子の腹は減ってきた。確か冷蔵庫に賞味期限切れの卵が入っていたはずだ。あれでオムレツでも作って、それから寝ることにしよう。
 佐江子はオムレツを作りながら、敏弘の顔を思い浮かべた。佐江子は敏弘のメガネとぼてっとした下唇が好きだった。佐江子が働く会社に敏弘が入ってきたのは1ヵ月前のことだった。敏弘が部署内で自己紹介している姿を見た時に佐江子はいっぺんに彼のことに夢中になった。佐江子は敏弘のようなちょっとオタクっぽい男子は、同じ趣味を持っていたほうが仲良くなれるということを知っていたから、焦って警戒される前に、敏弘のバックグラウンドをリサーチし続けた。
 そして、敏弘が火曜日と木曜日の夜にバンドの練習に出ることを突き止めた佐江子は、この時間が狙い目だと思い、敏弘には黙って彼の家にあがりこむようになった。佐江子は以前に鍵交換の仕事をやっていたから、こんな築20年のアパートに侵入するのなんて朝飯前のことだった。佐江子は敏弘の台所をリサーチし、好きな食べ物を割り出した。CD棚や本棚のラインナップを暗記し、彼がどういうものを聴きながら読みながら育ってきたかを把握した。
 佐江子の敏弘への接近はなるべくさりげなく行われた。敏弘はタバコを吸うようだったので、佐江子もタバコを吸い始めた。これまでの人生で一度も吸ったことがなかったため、タバコを吸いなれているように見せるのは大変だったが、初心者でないことをアピールするためにハイライトを吸うことにした。2人はタバコ室でたびたび顔を合わすようになり、自然に言葉を交わす間柄になった。
 敏弘は佐江子があまりに自分と趣味が合うことに感動していた。音楽ならボン・ジョヴィミスチル、お笑いならウッチャンナンチャン、作家だと片山恭一。映画は『いま、会いにゆきます』や『タイタニック』が敏弘のフェイバリットだった。敏弘は佐江子がまるで自分の分身のように思えて、話に食いついていった。佐江子は、あと一押しと言うところまで来たことを確信した。
 ただ、佐江子にとって難易度が高かったのは、敏弘が重度のウルトラマンマニアだということだった。「私もウルトラマン好きだよ」とは言ったものの、敏弘の「じゃあ、ブラックエンド知ってる? レオの最終回、超泣けたよね」というディープな話題に合わせるのがやっとだった。佐江子はこれについては、もっと腰をすえて勉強しないとボロが出てしまうと思った。
 そんな折に、敏弘が大阪への1週間の出張へと行くことが決定した。佐江子はこのチャンスを絶対に逃してはならないと思い、1週間の有休をとり、敏弘の家に泊り込んだ。
 そして、こうして佐江子は敏弘の家でゆっくりと怪獣の名前を暗記していた。こんなに真剣に勉強するのは高校受験の時以来だった。佐江子は自分で問題を作り、何度も自分をテストした。敏弘を落とすのは時間の問題だ。出張から帰ってきたら、映画に誘ってみよう。
 佐江子がそんな青写真を描きながらオムレツを作っていると、ドアから「ガチャ」という音が聞こえた。まさか…。敏弘の出張が早まったのだろうか。佐江子はあわてて火を消し、押入れに隠れようとした。
 しかし、訪問者が入ってきた時、佐江子は目撃されてしまった。その訪問者とは敏弘ではなく、女だった。佐江子は敏弘から彼女はいないと聞いていたのに…。
 女は佐江子の姿を見て、黙った。最初は恐怖を感じているようだったが、その表情が怒りに変わるのが佐江子にもわかった。
「誰よ。あなた」女の声は震えていた。
 佐江子はここでストーカー中だとバラしたら立場が不利になると思い、機転を利かした。「あんたこそ誰よ。私は敏弘さんの彼女よ」
「は? 彼女は私よ。何を言ってるの」
「ごめんなさい。あなたこそ何を言ってるのでしょうか。私は敏弘さんと同じ会社に所属する者で、先日敏弘さんに告白されたばかりです」できるだけ相手の神経を逆なでするように、佐江子は冷静に言った。
「あんたのことなんて聞いてないわよ。もしかして敏弘、二股かけたの?」女がカバンを置いて部屋に入ってきた。
「その可能性もあるかもしれませんね。私には、おまえだけだと言っていましたが」
「そう。あいつもなかなかやるようになったのね。あれ、これ何?」女はテーブルの上の『全ウルトラ怪獣完全超百科―決定版』を見つけた。
 佐江子はどう説明していいものか迷ったが、「敏弘さんが覚えてほしいって言うから…」と言うと、女は「あいつ、本当にウルトラマンの怪獣に詳しい女が好きよね。私もさんざん覚えさせられたんだから」と言った。
「ねえ」女は続けた。「じゃあ、ウルトラセブンの『悪魔の住む花』の回に出てきた怪獣、なーんだ」
「ダリーでしょ。宇宙細菌ダリー」
「お、なかなかやるじゃないの」
 こうして2人はウルトラマンの怪獣のクイズを朝まで出しあった。

 結局、佐江子のストーカー行為は敏弘に知られ、会社にもバレてしまいクビになった。佐江子は非常に悔しい思いをしたが、ウルトラマンの怪獣の名前をあそこまで隅から隅まで完璧に覚えたことは、自分にとってのいい財産になると思っている。