拍手は違法だ

 健康党に政権交代してからというもの、あらゆる法律が次々と改正されていった。まず酒とタバコは違法となり、1日8時間以上の残業は禁止された。睡眠時間が7時間を切る場合は申請書を書かなくてはならなくなった。それもこれも全て日本人の体力がなくなり、2036年には平均寿命が先進国の中でも最低に落ち込んだことが原因だった。日本の経済は下降し、芸術やスポーツも不発が続いた。世の中を生き抜くタフさを持ち合わせてない若者が次々と凶悪な犯罪を起こすようになった。
 そんな混乱の中だと、どんな優秀な政治家が現れても何もすることができなくなる。カリスマと呼ばれる政治家は何人か現れたが、無気力で不健康な国民の覇気のなさに阻まれて、何ひとつ実りのある政策を実行できずに次々と表舞台を去っていった。
 そこに彗星のごとく現れたのが健康党だった。健康党の党首である正田正男はもともと健康本のベストセラーを執筆する栄養士だったが、突如政界進出を発表すると健康党を立ち上げ、その勢いはとどまることを知らず、政党発足から2年で政権を奪取した。
 正田の政策は健康ファシズムといってよいものだったが、現実的に国民の健康状況は改善を見せた。それに比例して支持率も上がっていくと、正田はどんどん調子に乗り、首をかしげたくなるような法律を実行しはじめた。その中の最たるものが、拍手禁止法だった。
 正田のデータによると、強い拍手を長い間し続けると、手の骨の微細な振動が脊髄を刺激し、脳細胞を破壊するということだった。拍手をよくする人と、全くしない人では寿命が15年も違うというデータも割り出した。このデータの出所は秘密にされたため、真偽のほどは定かではないが、国民はすぐにこの新たな提案に飛びついた。我々日本人の長所といえば、命令に従うことにはこれ以上のない快感を覚えることだ。街中で拍手している人間を見ると誰かが密告し、すぐに警察に連行されていった。

 江島六郎は白亜紀大学の3年生で応援団に所属していた。この大学の応援団はいまや絶滅寸前の体育会系の最後の生き残りと言ってもよく、厳しい指導をよくされた。その中のひとつが、拍手では手から金属の音が出るまで鳴らさないといけないというものだった。六郎は寝る間を惜しんで手と手の骨をカチ合わせて金属の音を鳴らすように努力した。いつしか六郎は寝ている間にも無意識のうちに拍手をするようになってしまった。
 しかし、この正田の拍手禁止法ができたお陰で、六郎は拍手をすることができなくなった。法律では寝ていようが起きていようが逮捕されてしまうので、六郎は寝ている間も拍手をしないようにつとめた。その方法とは、手と手の甲を合わせて縛るというものだった。こうすれば、どんなに拍手がしたくても手のひらと手のひらを合わせることはできない。
 六郎の上級生たちは連日ミーティングを開いた。拍手が違法だとしたら、どうやって盛り上げていこうか? その答えは地団駄を踏むというものだった。六郎はすぐに金属の音が出るまで地団駄を踏むようになる。この応援団たちの新しい案は世間にも広まっていった。世間の人々は拍手なしではどうやって喜びを表現していいかわからなかったからだ。かくしてコンサート会場などでは地団駄が踏まれ、先生が秀逸なスピーチをすると生徒たちが地団駄を踏むようになった。こうして現在の日本のありようを異常と思う海外の人々からは地団駄国家といって皮肉られた。


 しかし、人間から拍手という表現方法を取り除くのは困難だったようだ。人々は拍手をしたくてしたくてたまらず、違法と知った人々が隠れて拍手を楽しむ地下サークルなどが作られた。これを隣人などが聞いて密告するケースもしばしばあった。拍手の地下活動を指揮していた大物活動家が次々と逮捕されていった。
 正田の圧政ぶりは当初こそは評判はよかったが、この拍手禁止法をきっかけに少しずつ不満は止められなくなっていた。きっかけは調子づいた正田が地団駄も身体に悪いといって、地団駄禁止法を作ったことだった。拍手も地団駄も禁じられてどうやって喜びを表現したらいいんだ?と野党からの質問もあがったが、正田は「口笛でも吹けばいい」と無責任なことを言った。しかし口笛は難易度が高く、できない人も多いため、猛反発があがった。この翌月、民衆によるクーデターが起こり、正田は失脚した。2年半に渡る拍手禁止法はこうして幕を下ろした。
 正田が失脚してからというもの、人々は所かまわず拍手をするようになった。今もこうして耳をすますと、近所の人たちが渾身の力を込めて嬉しそうに拍手をする音が聞こえてくる。