チキンボッサ

「浩二、行ってらっしゃい!」
「一人前になるまで帰ってくるなよ!」
 両親や友達に見送られて、佐伯浩二が家を出たのは2年前のことだった。浩二はその当時働いていた半導体の会社を辞め、以前から夢見ていたボサノバのギタリストになるためにブラジルに渡ることを決意した。幸いなことに浩二の両親は夢見がちな大人だったので、この決断を応援した。会社からは引き止められたが、決意の固さを何度も伝えたらやがて諦めてくれた。
 しかし、浩二はブラジルに行く寸前で臆病風に足元をすくわれ、飛行機に乗らなかった。成田空港にはみんなが見送りに来ていたから、すぐに帰るわけには行かず、トイレで半日過ごしてから人目を避けて電車に乗った。あれだけタンカを切ったのだから家にも戻るわけにいかない。そう思った浩二は誰も自分のことを知っているはずがない山梨に隠れ住み、そこで建築の仕事を見つけて匿名で働いた。人間関係が面倒くさくなって素性がバレそうになると、西へ西へと下っていった。
 浩二は家には何の連絡も入れなかった。入れたら逆探知などで居場所がわかってしまうと思ったからだ。家族はきっと自分の安否を心配してるに違いない。しかしもはや彼には戻るという選択肢はなくなっていた。

 やがて浩二は愛知県へと辿り着いた。愛知県の佐々木町という町は非常に落ち着いていて、自分の好みだと思った。しばらくここにいようと思った。
 浩二はギターだけは練習し続けていた。ある日のこと、川沿いで練習していると、ブラジル人の若者が近づいてきて言った。
「君、すっごいギターうまいね。ブラジルで僕のおじさんがカフェをやっているからそこで働けば」
「でも、俺、飛行機に乗るのが怖いんだ」
「そうなのか。それなら行けないな。ブラジルは遠いんだ。じゃあ、船で行くのはどうだい?」
「船も同じだよ。僕はこの国の外に出るのが怖いんだ」
「おいおい、そんなおっかない格好して、チキンなことを言うなよ」浩二はその頃、顔中をボサボサに伸び散らかしたヒゲが覆い、髪の毛はジャンバラヤのように四方八方に放たれていた。服装は全身茶色のレザーを身に纏い、未来から来たネイティブ・アメリカンのようないでたちだった。
 ブラジル人の若者は名前をアントニオと言った。アントニオはそれでも浩二をブラジルへ連れて行くことをあきらめられずに、突然思いがけぬ行動に出た。地面に転がっていた石をつかみ、浩二の後頭部に振り下ろしたのだ。
 気絶した浩二をアントニオは自分の家まで運び、密入国の斡旋をやっている友人のカエターノに電話をかけた。カエターノはすぐに船を手配し、浩二とアントニオを乗せてブラジルへと向かった。ブラジルまでは船で3週間かかったが、その間浩二は一度も目を覚まさなかった。というよりも、アントニオが睡眠薬を適度に服用させることで眠らせ続けた。
 アントニオのおじさんのカフェは「エストレーラ」というポルトガル語で「星」を意味する名前でサンパウロにあった。アントニオはここまで浩二を連れてくると、水をぶっかけて目を覚まさせた。浩二は目覚め、アントニオに怒鳴った。
「おまえ、突然何するんだよ! あれ、ここはどこだ?」
「ブラジルだよ。ほら、もう君はブラジルにいるんだ。怖くないだろう?」
 浩二はキョロキョロと回りを見渡し、自分の目を疑った。ブラジルにいるという実感が全くなかったし、少しも恐怖を感じなかった。その日のうちからアントニオに命じられるままにカフェでギターを弾き始めた浩二は瞬く間に人気を集め、やがてCDデビューをすることが決定した。浩二はそれまで「コウジ・サエキ」という本名で活動していたが、レコード会社のディレクターがもっとインターナショナルな芸名をつけてほしいということで悩んだ。浩二はその頃、自分のマネージャーをつとめていたアントニオに相談した。
 すると、アントニオは即答した「チキンボッサにしなよ。俺と出会った頃の浩二はチキンだった。今思い出しても恥ずかしいだろ? だから、あの頃の臆病な日々に決して戻らないためにも、チキンボッサとつければいいんじゃないか?」
 浩二はアントニオの提案に大賛成した。これ以上ないような素晴らしい名前だと思った。こうしてチキンボッサとして世界的人気を獲得していった浩二はついに日本への凱旋ツアーを行い、久しぶりに家族に会った。「どうしてチキンボッサって名前なの?」と母親に聞かれた浩二はありのままを白状した。せっかく送り出してくれたのに、日本をなかなか脱出できなかったこと云々を。しかし、成田空港のトイレに半日隠れていた話や、山梨の建築現場で働いていた話をしても、家族は「また〜、そんな嘘を」と言って信じてくれなかった。