犬の気持ち、切れる

 5年と6ヶ月の間、犬のカノンは飼い主の小須田に忠誠を尽くし続けてきた。小須田もカノンの振る舞いに心から満足していた。犬でもここまで自分のためにやってくれる犬はなかなかいない。
 しかし、その日は朝からカノンの態度がおかしかった。いつもは自分が会社に出かけるときはシッポを振って近づいてきて、首や頬にまとわりついたのに、この日は見送りにすら出てこなかった。
 体調でも悪いのだろうか。小須田が近づくと、カノンは虚空を見つめていた。小須田はそのおぼろげな視線を見て、見てはならない世界を覗いてしまった気がして体中に鳥肌が立った。
 小須田の予想は図星だった。このとき、カノンの気持ちはもう完全に切れてしまっていた。昨日までは小須田のためになら何でもしてやろうと思っていたし、その動きは体に染み付いているはずだった。小須田はカノンをドッグショーに出して、賞をとって儲けるのが夢だった。カノンもその夢に一役買いたいと思っていた。しかし、そんな気持ちが一切プツリと切れてしまったのだ。カノンにもその理由はわからない。もしかしたら何日か休めばまた元に戻るかもしれない。
 小須田もカノンと同じように、あくまで楽観的に考えていた。働きすぎの人間にも必ず訪れる、休息への欲求。この日、小須田はカノンへのご褒美休暇のつもりで、いつもの日課だったトレーニングは休ませた。筋肉をつけるための高タンパクな餌も食欲がなかったために控えた。
 しかし、そんな気遣いとは裏腹に、カノンの気持ちは何ヶ月経っても回復しなかったし、もう飼い主の顔を見るのも、匂いを嗅ぐのもイヤになってしまっていた。ショックを受けた小須田は、しばらく酒に溺れる日々を送ったが、もうどうにもならないと腹をくくってからは、話しかけるのをやめた。
 カノンはそんな小須田を見ているのが辛かった。自分が何もできないのは歯がゆかったが、小須田には元気でいてほしかった。カノンはそれとなく小須田の机の上に他の犬のカタログを置いておいた。すると、小須田はそれを読み始め、新しい犬を飼うことに決めたようだ。
 新しい犬はすぐにやってきた。カノンとは全く違うタイプの犬だったが、犬の目から見てもルックスのよさは明らかだった。カノンは、この犬ならショーで優勝できるだろうと思って安心した。
 その翌日、カノンは首輪を噛み切り、小須田の家を後にした。小さい頃から共に一緒だった小須田の手を離れ、初めて街を歩き始めると、臆病なカノンにとっては驚きの連続だったが、自分の気持ちが新たに高揚してくるのを感じた。こうやって街を徘徊して、最初に声をかけてくれた飼い主のところへ行こう。そしてその新しいパートナーとともにショーでの優勝を目指すんだ。そう考え、カノンの足取りは軽くなった。