ごめんねシャボン

 益美の家の網戸には毎日夕方5時になると、1匹の蚊がやってくる。益美はこの蚊にシャボンという名前をつけていた。益美はシャボンに恋をしていた。シャボンはきっと、ジャニーズ似の王子様の生まれ変わりで、いつかきっと人間に姿を変えて、私をヨーロッパまで連れていってくれるに違いないんだわと思っていた。
 益美は学校でもけっこうモテたが、告白されるたびに、私には好きな人がいるからと断っていた。益美が誰を好きかは明かさなかったため、益美は社会人の彼氏がいるんだという噂が広まり、それがますます益美の価値を高めていった。
 益美の母は、娘が蚊に夢中になっているのを知っていた。益美が小学校から帰ってくると、いつも網戸の前に膝をつき、蚊にボーッと見とれている。益美から恋していると聞かされた時は、どこか異常があるのではないかと心配したが、夜遊びして帰ってこないよりかはましだろうと思って、大目に見ることにした。
 その日もまた、益美はシャボンと目を合わせて照れたのか頬を赤く染めていた。夕焼けがいつもより赤々と燃えていたので、それがまた益美を一層美しく見せていた。すると、シャボンはそんな益美の美しさに魅せられたのか、普段と違う激しい動きを見せた。普通はただ網戸に止まっているだけなのに、この日は網戸の網目に身体をねじこませようとしている。
 それを見た益美は怖くなった。あくまで網戸の向こう側の存在でしかなかった憧れのシャボンがこっちに来る! シャボンは遂に網戸をくぐりぬけ、目にも止まらぬスピードで羽根を震わせながら益美のほうへと飛んできた。もしかしたらシャボンは、自分のことを好きでたまらない益美に、自分の体に手を触れさせてあげようと思ったのかもしれない。その距離がだんだんと縮まっていく。凍り付く益美の顔。
 その時、益美の母はテレビで「冬のソナタ」を見ていた。すると、益美のキャーという悲鳴とともに、ぴしゃりと何かをたたく音がした。母が益美を見ると、益美は自分の手の平を見ながら泣いていた。
「私がシャボンを叩いちゃった…。ごめんね、シャボン、ごめんね」
 シャボンはオスだったから、人間の血は吸わない。黒く潰れた体がそこにあるだけだった。
 益美の母は、娘の異常なほどの悲しみようを見て、一度くらいはシャボンを夕食に招待してあげたらよかったと後悔した。