猫を語る2

 テレビの制作会社に勤める鮎川貴志がドキュメンタリー番組の撮影でアフリカのケニアに旅行に行った際、マサイ族の人と話す機会があった。彼の名前はソロモンと言い、貴志が泊まったロッジで働いていた。ソロモンは貴志と年齢も変わらないように見えたが、子供が5人もいて、部族のリーダーとのことだった。英語も堪能で、貴志との話は大いに盛り上がった。
 ソロモンは日本について、特に動物についてを聞きたがった。貴志がライオンや象やキリンが動物園の中にいると話すと、ソロモンは非常に残念そうな顔を浮かべた。
「それはかわいそうなことだ。だって、ここでは彼らは楽しそうに走り回っているのに。じゃあ、日本では自由に走り回れる動物はいないのか?」
「そりゃいるさ。犬だろ、猫だろ、あとは…それくらいかな」
「ちょっと待て。犬なら知っているぞ。ヨーロッパの人間が猟犬を連れてくるからな。ただ、猫っていうのは何だ? 聞いたことがない」
 貴志は猫を知らないと言われて、どう説明していいものか迷った。「そうだな。小さくて、柔らかくて、かわいくて、いつも寝ているんだ」
「ボールみたいなものだな?」
「ボールじゃないんだけど…。ちゃんと足があって、手もあって、走ることができる。ただ、いつも寝ているんだ」
「OK。いつも寝ているボールだな。小さくて、いつも寝ているんだったら、このジャングルでは生きていくことができないだろう。なあタカシ、日本に帰ったらその猫ってやつを1匹送ってくれないか」
「送るのは無理だよ。じゃあ、今度うちの飼い猫を連れてくることにするよ」
 貴志は翌々月に、もう一度ケニアで撮影する予定があったので、その際に飼い猫のホッブズを連れてこようと思った。ホッブスは好奇心が旺盛で、長時間のフライトにも耐えられるので、きっといい思い出になるだろう。
 ソロモンと貴志はメールアドレスを交換して別れた。その後、日本に帰ってきた貴志は、毎日のようにソロモンからのメールを受信することになる。ソロモンはマサイ族には珍しく、パソコンなどのデジタル機器に詳しく、自分で描いた絵などをスキャンしてメールに添付して送ってきた。彼は貴志から聞いた猫の話が気になって仕方がないらしく、想像の中で描いた猫の絵を暇さえあれば描いているようだった。
 それらを見た貴志は、ソロモンの想像力のたくましさに感服するばかりだった。色とりどりのボールが何万匹も河を渡っている様子や、サムライや忍者が戦闘を繰り広げる横で団子虫のようなボールが這い回っている様子、パックマンのようなボールが新幹線を追い越している様子、オフィスでパソコンをいじるボールたち。
そこにあるのは、全てボールのような生き物だった。ソロモンの中では、とにかく猫は丸いものだと思っていようだった。

 そして翌々月、貴志はホッブズとソロモンを遂に対面させる時がやってきた。貴志がホッブズの入ったカゴを持ってやってくると、ソロモンは興奮しているのか、その場で天高く求愛のジャンプを跳んだ。
「そんなに期待するなよ」貴志が笑いながら、カゴの取っ手に手をかける。
「いいから、いいから、早くしろ!」ソロモンのジャンプはますます高さを増す。
「ジャーン」貴志がホッブズをカゴから出して抱き上げると、ソロモンはジャンプをやめた。
「こ、これが猫なのか」
「そうだよ。期待はずれだったか? おまえの描く想像力豊かな絵に追いつける動物なんて、この世にはいないよ」
「ただの小さいライオンじゃないか」ソロモンはその場に崩れ落ちた。「そうならそうと、最初から言ってくれればいいんだ」その目からはうっすらと涙が流れている。
 貴志は急に悪い事をした気になった。「小さいライオン、か。言いえて妙だ。最初からそう言えばよかったな」
「俺がそんなに驚かないだろうと知っていたなら、連れてくるべきじゃなかったんだ。想像をめぐらせている時間がどんなに楽しかったか、おまえはわかるか? こうやって現実を見てしまったことで、俺の想像力は二度と働くことはない。二度と…」
 泣き崩れたソロモンを貴志は抱え起こし、細い腕で筋骨隆々とした身体をハグする。
「ごめんな。ごめんな。もうこんなことは二度としない。おまえの期待を裏切るようなことは絶対にしないから」
 そう言いながらオイオイと泣きわめく2人を無視して、猫のホッブズはそそくさとロッジ内を散策して回っていた。