会社員としてあるまじき行為

 月曜日の朝、長瀬善也が就業開始時間ギリギリに出社すると、5分後に緊急会議が開かれるとの通達が机の上に配られていた。遅れないようにと長瀬はダッシュで会議室へと向かう。するとそこには、すでに長瀬を除いた全員が集合しており、長瀬が入ると、室内の緊張感が増した気がした。
 そんな中、部長が厳かな咳払いとともに話し始めた。
「本日、集まってもらったのは他でもない。うちの部署の長瀬善也が会社員としてあるまじき行為をしていることが発覚した」
 長瀬は冒頭から自分の名前が出たことに驚いた。会社員としてあるまじき行為なんて、何ひとつしたことがない。何かの間違いではないだろうか。
 しかし、長瀬が反論しようとすると、部長はそれを抑えるかのように話を続ける。「長瀬の意外そうな顔を見ていると、本人としては自覚がないようで腹立たしい限りだが、こうなったらはっきり言おう」部長は報告書に目を落とし、「報告書にはこうある。長瀬善也は先週水曜日、渋谷の音楽スタジオにギターを持って出入りする姿が発見された。目撃者がスタジオの受付の人間に聞いたところ、長瀬は頻繁にスタジオに出入りしており、自らのロックバンドを組んでいるということだった」
 そこまで読み上げられると、会議室の中にはどよめきとざわめきが交差した。
 部長が長瀬に向かって聞く。「長瀬、これは事実か」
「はい、事実ですが。何か悪いことでもあったでしょうか」
 この長瀬の返答に再び会議室がざわめく。
「何か悪いことっておまえ。会社員がロックバンドなんてやっていいわけないだろう!」
 部長が得意の瞬間湯沸かし器ぶりを発揮し、握り締めた拳で机をたたいた。そんな部長の怒りを、副部長の沢野崎がなだめる。
「まあまあ部長。ここは長瀬に聞いてみましょう。なあ長瀬、おまえはどんなロックバンドをやっているんだ? ロックバンドと言ってもいろいろあるだろうから、それ次第では我々も処分を軽減させてもいいぞ」
 いつのまにか処分という話まで進んでいることに対し、善也は混乱を隠せなかったが、とりあえずありのままを説明した。「普通のロックですよ。ハードコアとかデスメタルとかそういうのじゃありません。割とソフトタッチなアコースティックサウンドで、愛や恋を歌っております。それが何かいけないんでしょうか」
「いけないに決まっているだろう!」部長の一番のお気に入りとされる、熱血漢の権藤権蔵が声をあげた。「おまえ、いくつになったと思ってるんだ? え? もう26だろ? それなのに愛だ恋だなんて頭がおかしいんじゃないのか」そして、部長のほうを向き、「部長、私は即刻長瀬をクビにするべきだと思います」と進言した。
 部長は権藤のキレぶりを見て、少し落ち着いたのか、しばしの沈黙ののちに言った。「私も大人のはしくれとして、長瀬に最後のチャンスを与えてやろう。もしも長瀬が今ここで歌って、私たちを感動させたら許してやる。だが、できなかったら即刻クビだ。荷物をまとめて出ていってもらおう」
「ぶ、部長。そんな甘い措置でよろしいのですか?」権藤の背中はワナワナと震えていた。部長は立ち上がって権藤のところまで行き、背中をよしよしと撫でながらなだめる。「いいんだよ。権藤。おまえはよく怒鳴ってくれた。正しいのは長瀬じゃない、おまえだ。ただな、私も子供を持つ身として、若者がバカな行動に走る感覚は少しは理解できる。ただ、そのバカが、人々の役に立つものだったら多少は許してもいいだろうと思っているんだ。そうだろ、長瀬? おまえは人々の役に立ちたくて歌っているんだろう?」
 善也はどう答えていいのかわからなかった。ネットにメンバー募集の通知を載せた時には、こんなに大ごとになるとは思ってもいなかった。善也は確かにバンドを真剣にやっていたが、自分がプロとしてやっていける自信もなかった。会社員を続けながら、なんとなくたまにライブができるだけで幸せだったのだ。それをこうして改めて詰め寄られると返す言葉がない。ただ、この会議室の空気的には歌わないわけにはいかないだろうから、仕方なく歌うことにした。「わかりました。歌います」
 善也が歌ったのは「君は美しいから好きなんだ」という曲で、サビの部分はタイトルそのまま「君は美しいから好きなんだ」と連呼するものだった。善也を除いた社員たちはロックのことはからっきし門外漢だったが、善也が全く才能がないということだけはわかった。
 だが、義也自身は意外とうまく歌えたので、クビはないだろうとひそかに期待した。「どうでしたか? 2回目のサビの部分で少し音程をはずしちゃったんですが…」
 室内はシーンと静まりかえっていた。彼らが考えていたのは、長瀬という人間がとても気の毒な人間だということだった。そして、副部長が部長に耳打ちをした。それを聞いて部長はうなずいた。「誠に言いにくいが、長瀬くん、君には才能がないと思う。だが、我が社としても、君のような才能のない男を今クビにしても、生きていく術がないだろうから、私の特別な温情的計らいでクビにすることはやめようと思う。だが、長瀬くん、私から一言だけ言わせてくれ。バンドはやめなさい」
 しれを聞いて長瀬は深く傷ついた。確かに自分に才能はない。でも、部長にここまでボロクソに言われる筋合いはないと思う。だが、そこで長瀬は自分の父親が昔からことあるごとに言っていた一言を思い出した。「善也、会社というものは日本では絶対であり、宗教だ。言うならば上司は神だ。だから上司のいうことは何でも聞け。それが社会人としてのマナーであり、生きる知恵だ」彼は今、初めて父親が言っていたことがわかった気がした。
「わかりました。バンドやめます。仕事に打ち込むことにします」
 部長は「よし、よく言った」と言ったが、他の社員の反応は様々だった。きっとロックをやった人間に仕事なんてつとまるわけがないと思っているのだろう。中には「クビにしろよ」とつぶやいている社員もいた。
 そこに権藤の一言が追い討ちをかける。「おまえ、本当にバンドやめるのかよ。口ばかりじゃないの」
 長瀬はこの一言に腹を立て、バンドのメンバーにその場で電話をした。「解散な。ああ、俺たちは解散だ」長瀬の目からは涙がとめどなく流れてきた。
 これを見てもまだ信用してなさそうな社員の姿を見て、長瀬は絶対に仕事で見返してやろうと誓った。ロックはもう捨てた。何がバンドだ、何がスタジオだ。これからは会社だ。仕事こそが俺の全てだ。父さん、これからの俺を見ていてください。誰よりも忠誠に、上司と言う名の神に仕え、メキメキと頭角を現しますから。