裏切りのヒーロー

「あーっと、ここでようやく柴崎がゴール! なんと122人中の120位! またも惨敗! 見後に惨敗! 国民の期待はまたしても裏切られてしまった!」
 アナウンサーの耳障りな声を聞くだけで、柴崎は便器の中に顔を突っ込みたくなる。彼は今、前回のオリンピックで惨敗した中継を録画で改めて見直していた。明日は4年ぶりにリベンジの機会となるオリンピックのマラソンの当日だった。柴崎がどうして勝てないのか、その理由は自分でもわからなかった。毎回毎回優勝候補と期待されながら、本番では負けてしまう。今回もまた負けて、成田空港で生卵をぶつけられてしまうのだろうか。
   
 そんな柴崎の心配をよそに時は刻々と過ぎ、翌日ついに本番の瞬間がやってきた。スタートラインに立ち、合図の音が鳴る。柴崎は今回は普通の走り方では勝てないと思ったから、まずは後ろ向きになり、右足と右手、左手と左足を同時に動かす、いわば「逆ナンバ走り」のような走行で走った。これくらい無茶をしないとオリンピックでは勝てない。4度のオリンピック出場でそう悟ったのだ。
 すると、スタートして数秒も経たないうちに、柴崎の周りには誰もいなくなった。よし、これできっと他のランナーを一気に抜き去ったのだ。あとはスピードを落とさずに行けば勝てるに違いない。
 しかし、何かが様子がおかしかった。進めど進めど、コースラインのようなものは出てこない。見たこともない、つるつるとしたうどんのような物質の上を柴崎は走っていた。彼は途端に恐怖に襲われたが、国民からのプレッシャーを考えると、絶対に立ち止まるわけにはいかなかった。
 何か音が聞こえる。遠くのほうに見える赤紫色の地平線から猛スピードで近づいてくるものがあった。エビだった。いや、正確に言えば、エビのような人間だった。エビ人間は後ろ向きに走り、ありえない速度で柴崎に追いついた。
「よく来たね。この世界に人間が来るとは思わなかったよ」
「君は誰だ? エビなのか?」
「ああ、君たちの言語で言うなら、そうかもしれない。だが、僕と君は通常違う次元に暮しているんだよ」
「じゃあ、どうしてこうやって話していられるんだ」
「君は他の人間が絶対にやらないような走り方をしたことで、こちらの世界にアクセスしてしまったんだ」
 信じられないような話だったが、柴崎はすぐに信じた。柴崎は昔からオカルトやSFが三度の飯よりも大好きで、練習中にグレッグ・イーガン矢追純一の本をよく読みふけってコーチからカミナリを落とされたものだった。
「そうか、僕が後ろ向きの逆ナンバ走りをしたことで君に逢えたんだね。じゃあ、この走りをすれば、他の人間が君のようなエビ、あ、ごめん、君にも名前がちゃんとあるのかな」
「グコルだ」
「グコルか。グコルに逢えるということだね」
「そうだ。ただ、人間はもう何百年前から走り方の概念が今の形で決まってしまっているから、崩すのはなかなか難しいと思うよ。その昔、様々な走り方が地球上に溢れてきた時はしょっちゅう人間たちがこっちに来たんだけどね」
「いやいや、そんなことはないさ。僕が生きた証だから、絶対にこっちにみんなを連れてきてみせるよ」
 そう言って柴崎は前を向き、普通の走り方に戻した。すると、景色があっというまにオリンピックに戻り、観客から猛烈なヤジが飛んでいた。
「柴崎ー! ちゃんと走れ! 今回もまた国民の期待を裏切るつもりかー!」
 柴崎はもはや、普通の走り方で走るつもりは毛頭なかった。そのままコース上で立ち止まり、ゼッケンをむしりとり、棄権を発表した。
 その夜、柴崎は国際放送で記者会見を行い、逆ナンバ走りについてのレクチャーを行った。すると、その放送を見た何千万人の人々が試してみて、エビそっくりのグコルに逢えたという電話が殺到した。人々はもはやオリンピックなどどうでもよくなり、グコルのいる世界に遊びに行くほうに夢中になった。現実の人間世界のほうが楽しいよ、と逆ナンバ走りを禁止する自治体もあったが、時代の流れは止められなかった。この後二度とオリンピックが開催されることはなかった。
 柴崎はランナーとしては日本国民の期待を裏切り続けたが、グコルがいる異次元との扉をこじあけるという偉大な功績を残した。このため、海外では評価は高く、人類の英雄として扱われたものの、日本国民の前で柴崎という名前を出すと、人々は皆、複雑そうな顔を浮かべた。