深海のドーム

 九条の空が薄暗くなっていく中、京セラドームでは阪神vs横浜の開幕戦が始まっていた。開幕投手に選ばれた安藤優也の今年に投げる意気込みは生半可なものではなく、この試合の初球が2010年の成績を決めるだろうと思っていた。城島のサインを覗き、首を縦に振る。球種はストレートだった。去年との俺は違う。オフに8キロ減量したこのボディからキレのあるまっすぐを放り込んでやろうじゃないか。コンパクトでありながら体重移動をしっかりとさせたフォームで、魂を込めた球をミット目がけて投げようとする。
 ボム。
 安藤が左足をマウンドに踏み込んだ瞬間、京セラドーム全体にトイレの水づまりを直したかのようなくぐもった音が響き渡った。安藤はそのまま球を投げずにフォームを中断したが、主審からはボークを宣告されなかった。審判も選手も観客も、キョロキョロと宙を見つめ、みな何が起こったかを必死に探ろうとしている。
「安藤、何が起こったんだ?」城島が猛ダッシュでマウンドに駆け寄ってくる。
「知りませんよ。僕が聞きたいくらいです」せっかくいいストレートを投げれると思っていたのに、安藤にとってはこの試合中断は不吉な予感がして嫌だった。
「おーい、審判。何か説明してくれよ」城島が一塁塁審に向かって言い、審判団が集まり、アナウンスが行われた。
「ただいま、奇妙な音が球場内にこだましましたので、試合を中断したいと思います。また続報が入り次第お伝えします」
 その時だった。客席の外にある廊下から職員が球場内に駆け込んできた。
「海だ! 海だ!」彼が窓の外を見ると、そこは薄暗くなりかけた空ではなく、漆黒の海の中だったという。パニックを起こした観客が急いで球場の外に出ようとするが、出ても無駄だということがわかったのか、すぐに戻ってきて自分が本来座っていた席に着席した。
 原因は全くわからない。ただ、おそらく安藤が投げようとした瞬間に異常な地盤沈下が起こり、京セラドームごと深海に沈んでしまったようなのだ。日本の国土のそのさらに奥底へ、地底でもない、マントルでもない、人類が観測できたことのない深海へ。
 横浜の選手と阪神の選手はそれぞれミーティングを開き、今後どうするかを検討した。地上に連絡しようにも、もちろん電話線は通じていなかった。何よりも外にある水が浸入するのを防がなくてはならなかったが、京セラドームの防水機能は完璧で一適の水も中に入れなかった。それは巨大な原子力潜水艦のようだった。
 最初はシリアスな表情を浮かべていた選手たちも、次第に状況に慣れてきたのか冗談を言い始める。金本が笑いながら、
「安藤があまりに気合い入れて踏み込むから、地面に穴が開いちゃったんだろ」とちゃかし、
「そんなことありえないですよ」と安藤が反論する。
 しかし安藤は、確かに自分が左足を降ろした瞬間にあの音がしたのだから、もしかしたら本当に自分が京セラドームを深海に沈めてしまったのかもしれない。そんなことを心の片隅で本気で思っていたが、さすがに口に出せなかった。本当に自分が沈めたのだとしたら、5万人の観客からなぶり殺されてしまうだろう。
 そんな安藤の心配をよそに、深刻な状況の割りには何も起こらないことに対し、観客は退屈し始めた。最初は選手たちがビールをついで回ったり、サインボールを配って交流をはかるなどしたが、次第にそれにも飽きてしまい、やがて「やっぱり試合が観たい」という意見が聞かれるようになった。それもそのはずだ。せっかくの予定を割いて、高いチケット代を払って来ているのだから。
 こうして深い深い深海の中で、テレビ中継もされていない外界から遮断された空間で、試合が再開されることになった。
「よし、気を取り直してしまっていこう!」城島が威勢のいい掛け声をかける。
再び初球を投げることになった安藤は、城島の勢いとは対照的に、おそるおそる左足を踏み込んだ。なぜなら自分の左足がこれ以上深海に沈んでしまったら、自分たちが帰れる要素はかなり少なくなってしまうと思ったからだ。
 しかし、そんな弱々しいフォームから繰り出されたストレートは力のない棒球だった。球を投げた瞬間、キャッチャーマスクごしに城島の顔が歪んだのが見えた。まるで舌打ちが聞こえてくるかのようだった。
 横浜の1番バッター、内川が振り切ったバットは安藤のボールをとらえ、軽々とスタンドへと放り込んだ。初球ホームラン。花火のように盛り上がる3塁側のスランド。その打球を見た安藤は頭を抱えこみ、心の底から後悔をしていた。深海に沈もうと何だろうと躊躇すべきではなかった。渾身の力を込めて自分の一番いい球を投げ込むべきだったのだ。