部屋とエンヤと桑田と私

「おい、古村! おまえ昨日、体育祭さぼって何してたんだ?」
 担任の庄田先生の低い声が教室内に響き渡り、クラス中の視線がぼくに注がれていた。ぼくは遂にこの瞬間を迎えることができたことにとても興奮していた。

 ぼくがあの感動的なエピソードを聞いたのは、小学生の頃だった。その当時、日本がワールドカップに初出場を果たしたことで国中が未曾有の盛り上がりを見せていた。テレビをつけても1日中ワールドカップ。学校に言ってもみんな話題はワールドカップ。家に帰ってももちろん家族はワールドカップ。ぼくは大の野球ファンだったこともあって、どうしてもこの流れに乗ることができなかった。日本人はそれまで野球が好きだったのだから、突然サッカーに鞍替えするなんて、裏切り行為だと思っていた。
 そんなワールドカップの喧騒が終わった後、ぼくは尊敬する桑田真澄投手が載っていた雑誌を買った。すると、そこにはその後のぼくの人生を変えるような出来事が書かれていた。
 桑田投手は国中がワールドカップに熱狂することに嫌気がさして、日本戦があった日には部屋でひとりエンヤの音楽を聴いていたという。ぼくはこのエピソードを見て、なんて格好いいのだろうと思った。周りに流されることなく、自らの意志を貫く。エンヤはぼくにとってそんな生き方の象徴的な存在となり、それまで名前も知らなかったこの女性のCDを貪るように聴きまくった。桑田投手から受けたこの感動を、いつの日か他の誰かにも届けてあげることを夢見ていた。
 そのためには、学校でもっとも注目度の高い全員参加の行事をボイコットすることが大事だった。そして翌日「なんで来なかったんだ?」と追求されて、「エンヤを聴いていたから」と答える。これによって多くのクラスメイトたちに感動を与え、周りに流されないで生きていくことへの指針を示してあげられるはずだった。また、もしかしたら女生徒のハートをつかんで、交際に発展することもあるかもしれないという下心があったのも事実だ。


 そして今、体育祭の翌日にその時を迎えている。クラス中の視線を身体中に感じたぼくは、喜びのあまり失神しそうだった。言えるのだ。今、やっと言える時が来たのだ。
「なんとか言ったらどうだ!?」庄田先生の声が鋭さを増す。
「エ、エ、」
「エ? エがどうした?」
「エンヤを聴いてました」
 遂に言ってしまった。肩からどっと力が抜けていくのを感じた。そして同時に、興奮が全身を駆け巡るあまり、クラスメイトの顔を見れなかった。うつむいたまま、「エンヤを聴いてました。部屋でひとりでエンヤを聴いてました」と何度も同じフレーズを繰り返し唱え、そのまま教室を歩き去った。
 追いかけてくる者は誰もいなかった。長年の夢が叶ったぼくは家に帰った。母親から「どうしたの?」と聞かれ、「授業が休みになったから早く終わった」と答える。ぼくは机に座り、クラスメイトたちの心にどうエンヤが浸透したのかをひとりで想像してほくそ笑んだ。
 すると、結果は思わぬ速さでやってきた。クラスメイトの夢田菜々子からその夜、電話があったのだ。
「古村くん、今日凄く格好よかった。みんなが右にならえの精神で体育祭に夢中になる中で、エンヤを聴いていたなんて素敵だわ。パンクだわ。私も実はエンヤが大好きで、一生エンヤ以外は聴かないと決心した者のひとりなの」
「本当かい? ぼくも実はそう決心したんだ。エンヤ以外の音楽がテレビでかかっているとすぐに消すんだ」
「私も! 私もよ!」
「これに至るにはあるエピソードがあってね」
 ぼくは桑田投手のエピソードを話した。すると、彼女は感極まったのか、グスッグスッと涙をすする声が聞こえてきた。
「ありがとう、古村くん、いい話を聞かせてくれて。ひとつ思ったんだけどさ。私たちはエンヤというキーワードでこうしてつながったのだから、この先もパートナーとして一緒に歩むべきよ」
 鈍感なぼくでもわかる交際のお誘いだった。ぼくは即答することを躊躇した。今ここで交際の約束をしてしまったら、他の女子から交際を申し込まれた時に後悔するかもしれない。
「前向きに検討してみるよ。返事はあと1週間だけ待ってくれないか」
「わかったわ。それまでエンヤを聴きながら待つことにする」
 夢田とのトークを終えたぼくはその後かかってくるはずの電話を待ち続けた。しかし、いくら待っても電話はかかってこなかった。
ぼくは1週間待って夢田に電話してみると、彼女は喜んでいた。
「うれしい! 付き合ってくれるのね」
「ああ、いいよ」
 こうしてぼくらのエンヤをきっかけにした親密な交際が始まった。ぼくらはエンヤを日夜休むことなく聴き続け、人付き合いも絶ち、周囲の言っていることには一切耳を貸さないカップルとなった。結婚式、引っ越し祝い、息子の誕生日…と、いつもそこにはエンヤの音楽があったが、友達の姿はひとりもなかった。